おのれ、肩甲骨!

わたしは、自分の肩甲骨の周りがどのようになっているかを、あまり知らない。肩甲骨だけではない。おしりの少し上の腰のあたりだとか、自分の背面にあたる部分をあまりよく見る機会がない。自分でおのれを観察するにしても、どうしても観察が難しい側面や、見えづらい部分が存在する。


灯台下暗しということわざがある。光るものを乗せている台の下には、光が当たらない。おのれが灯台であることをやめない限り、その下を見ることは難しい。


観察していることを悟られないようにすることも、観察テクニックのひとつだと思う。何かを観察する際には、対象者に観察者の存在を悟られないのがのぞましい。観察されていることを前提とした態度を取られたのでは、観察によって得られた情報がそのとき限りのものになってしまう。観察を終えた途端に、観察を受けていたときの対象者が消失してしまうのに等しい。


観察されていることを知らないおのれを観察するのは、かなり難しい。鏡を見ても、そこにいるのは鏡を見ている自分である。誰かが隠しカメラで盗撮でもしてくれない限り、観察者の存在を認識した態度になってしまう。


観察がむずかしいからこそ、そこに価値ある発見が潜んでいるのだともいえる。隠しカメラに近い存在になりうるのが、他者である。


他者の指摘から得られるものは、その他者なりのフィルターがかけられたものかもしれない。そのフィルターの性質を知ることは、指摘の本質を的確に掬い取るのに役立つだろう。


おのれが観察に際してどのようなフィルターをかけがちか、その性質を知ることでいくらか観察結果に対して補正をほどこすことが可能になるかもしれない。


観察を受けていることを意識しているときの自分と、そうでないときの自分の差異を知るのは難しいかもしれない。ただ、わからないものをわからないままとして、とりあえず明らかにされたもののみを頼りに進むことができる。未知の領域が潰えないからこそ、生きていかれるのだとさえ思う。



お読みいただき、ありがとうございました。