あゆみ 〜生績通知票〜

45歳ってどんなだろう。どんなからだの感覚なんだろう。今年33歳になる僕の、およそ12年後だ。


同い年の人たちの平均的なからだと、じぶんのからだはどれくらい差異があるのだろう。瞬時にその平均モデルのからだになったとしら、どんな感じだろうか。重いのか、軽いのか。快適なのか、不気味なのか。


僕には僕のからだのつかいかたの癖がきっとある。固有の生活習慣がある。いや、それはごく平均的なものかもしれないけれど。


馬鹿の一つ覚えといった表現が当てはまるかはわからないが、ひたすらに信じて積み重ねてきたこともある。その信用が妥当かどうかを疑って、新しく何かを取り入れたり、始めたりすることもある。


そのコツコツと積み重ねてきた、おのれの「生」の成績通知票みたいなものを、ある年齢で区切って突きつけられたとしたら、どうだろう。今の僕にくだされる評価はどんなものか?  それがたとえば12年後だったらどう変わるだろうか?  そんなことは、誰も知る由がない。統一された評価基準もない。


タバコを吸って、その影響のおかげで何か可能になることが仮にあるとする。おのれの力で(あるいは何かしらの力添えがあって)おのれの外側に何かを築き上げたり、ものしたりしたとする。そこで仮に「生」の通知票をつきつけられるのならば、そういった外部化された自己を含めて評価されるのが妥当だろうか。生身のつるつるのわたしって、どこからどこまでなんだろう。


外部化されたおのれはさておき、いまここにあるひとつのわたしを見たとする。その範囲を見切ることができたとき、まじまじとその人は、おのれの年齢というものを自覚するのかもしれない。外部化したすべてのおのれを一旦忘れて、生身で、はだかんぼうで、つるつるのわたしを見たとき……ああ、わたしも、こんな歳になったのか……などど思うだろうか。


僕には子どもがいるけれど、あるとき、子どもに対して怒れるようになった。幼児に対して、どうすることもできないいらだちを抱え込む若者の姿が、つい最近までの僕だった。いつの間にか僕は、怒りおやじになってしまったのだ。子どもに怒らない僕は、どこかへ行ってしまった。もういない僕である。怒らなかっただけなのか、怒れなかったのかはわからないし、その区別があるようにも思えない。


最近の僕が自分の年齢を自覚したポイントは、そんなところにある。イチローのそれと並べて語るには、とてもみみっちいものだろう。



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