名前も知らない親子です

いないものに話しかける。たとえこの世にいないとしても、話しかけられた瞬間、その者は存在することになる。いや、だれかが話しかけようとする意思を抱いた時点に、だろうか。


あたらしく出あう者に、かつて出あった者を重ねる。かつて出あったその者を知っているからこそ、あたらしく出あう別の者の中に、かつてのその者を見いだすことができる。


僕の息子は2歳だ。この5月で3歳になる。目をぎゅっとつぶって、ぱっと開いたらもうこんなに成長していた。……なんてことは実際ないが、そんな気分である。これまでに、一体僕らは何をしていたっけ?  


最近、妻がスマートフォンの中から見つけ出して僕に見せてくれた息子が映ったムービーがあるのだが、その動画の中で、息子はあいまいな発音でしゃべっていた。現在の息子は、はっきりとした発音でたくさんしゃべる。こんな時期もあったのだということを、写真や動画は教えてくれる。


こういった記録物は、勝手に変質しない。僕の記憶は、変質するけれど。


写真や動画の中の息子は、ある意味、もういない。いや、もちろんあの動画の被写体となったかつての息子と同一人物の2歳の男の子は今もいるけれど、成長して変化しているため、かつてのままではない。


その、今はもういなくて、記録物の中にだけある存在が、現在の僕に、はたらきかける。影響をきたすことがある。


生きているということは、日々刻一刻と別人になり続けることなのかもしれない。記憶も、随時別人に引き継がれ続けていくわけだが、その過程で、やんわりと変質していく。ナマモノなのである。


記録物にはそうした変質はない。もちろん、現像した写真紙が黄ばんだり擦り切れたり、といった変化はあるだろうけれど。


フィジカルに宿ったいのちは、一定の保存可能な期間があったりなかったりしつつ、やがては期限切れになってしまう。製造者によって付された賞味期限が切れるとかそういうことではなくて、本当に、変質したり朽ち果てたりして、消えてなくなっていく。


それまでの間に、誰かの口に入ったり、何かを育む土壌になったりして、あたらしものを生み出す親になる。僕はきっと、覚えのないところでたくさんの者たちと、いつの間にやら親子関係を結んでいることだろう。


僕がきれいさっぱりいなくなったときに、だれかに話しかけられることもあるかもしれない。



読んでいただき、ありがとうございました。