98 or 99?

失敗は成功のもと、ということばがある。失敗の積み重ねが成功に辿り着くために有効なものだとしたら、どんどん失敗すればいい。


やる前から明らかに、そりゃ失敗するよな、というようなやり方をわざわざ試したところで、99パーセントダメだろうというところが100パーセントダメなやり方だ、というのがわかるだけかもしれない。いや、100パーセントダメということがわかるというのは、なかなかに重大な発見かもしれないから、98パーセントダメだろうと踏んだところが、99パーセントダメだとわかるかもしれない、程度のことか。


それよりもおそらく、60パーセントくらいの確率でいけるのではないか、というようなことをどんどん試すべきなような気がする。実際にそれをやってみて、これは80パーセントいけるぞ!  とか、40パーセントくらいの確率でいけるやり方だったな、とかわかることのほうが、98パーセントダメだと思ったやり方が99パーセントダメ、に正されることよりきっと有効性は高い。


失敗は成功のもと、として、とにかく数打つにしても、ある程度狙いすましたほうが無駄な努力をせずに済むのではないか。


もちろん、無駄かどうかをいちいち検証するために時間や労力を注ぎ込むことがあまり賢明でない場合がある。そうした場合は、取り返しのつかないような深刻なリスクを負いかねないのでなければ、どんどん打つべきである。


そんなふうに偉そうなこといえるほど僕が数打っているかといえばぜんぜんそうではなくて、そこまで一発の弾を打つことの妥当性の検証のために時間や労力をつかわなくとも良いのに、と客観的に観察した者からアドヴァイスされかねないような慎重派だと自覚している。


だからか、判断が素早く、木を見るのはほどほどに、きちんと広く森を見て、かつひとつひとつに狙いをすまし、どんどん的確に弾を打って(撃って?)いける人に憧れる。


僕は、98パーセントか99パーセントかという、ほとんどどっちでもいいようなことばかりにとらわれやすいのかもしれない。そこを明らかにした場合に得られる発見は小さいし、影響も少ない。


この小さな差異を明らかにすることに躍起になりすぎがちだ、ということも失敗のひとつと自覚して、さて僕はひとつ成功に近づいたのだろうか?  と言われれば、やはり98パーセントか99パーセントかを明らかにした程度のものかもしれないが、まぁそれでも両者の違いを全く知らない状態よりは多少マシともいえる。


こうした小さな発見が仮に1だとして、100回繰り返せば100になる。案外、それだけが「せいこうのもと」をかき集める手段なのかもしれない。荒稼ぎの裏には、かならずどこかに歪みが生じるのだ。その負担を、他人に押し付けるわけにはいかない。僕の慎重さの根源は、きっとそういうところなのだと思う。


1人でいることが好きだ。他者と力を合わせなければ到達できない場所があるとして、それよりも1人でいることで到達できる高みを志向する性分なのだ。そのことが良いか悪いかは別の話であって、僕はこの自分の志向のために、ときに善にも悪にもなるだろう。



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