枯れ木の功

人の悪口を成立させるには、ある種の信頼関係が要る。いや、ふつうにいったらそんなものなくても悪口は成立する。ここでいうのは、もっと限られた種類の悪口のことである。


たとえば、相手の良いところも悪いところも認め合うようなよく知った間柄において相手の悪いところをズバッと言ったとしたら、その間柄を知る第三者が聞けば、その悪口は鋭い冗談のように響くのではないか。たとえ客観的な評価を的確に述べているだけたとしても、愛あるゆえのエンカレッジメント、みたいに聞こえるのではないかと思うのだ。


「枯れ木も山の賑わい」というと、枯れ木は悪いことのたとえだ。悪いこととまではいわなくとも、役立たずだとか、つまらぬものといった意味あいである。


だが、ちょっと待て。役に立たないものって、なんだかすごく魅力的ではないか?  つまらぬものにこそわたしはこだわりを見せ、夢中になっている。思い当たることばかりである。


「枯れ木」というニュアンスもまた素晴らしい。渋いじゃないか。潤っていて生命力あふれる若木のほうが、よっぽど役立たずに思える。


おのれを枯れ木に喩えることで、謙遜をあらわすこともできるのだろう。だけれど、ひねくれ切ったわたしには、「あなたたちに枯れ木の魅力がわかりますか?  まぁわからないでしょうね。それでかまいませんけれど。はい、いかにも、わたくしこそがその枯れ木でございます」というような嫌味にさえ聞こえる。「わたし、わたしはわかりますよぉ~!」とでも名乗りを上げたくなる。そんなヤツは、ほんとうはなんにもわかっちゃいないのかもしれないが。


おのれを一段低いところにおくことで、おのれ以外の者たちを動かすことなく、そこにいる人たちのことを相対的に高いところに位置付けられる。讃美もできるし、勇気づけることもできる。ちょっとした表現のテクニックだ。


それでいて、そこにあるものの価値を素直に認めることを助ける心の持ちようなのかもしれない。わたしのようなものも、いることで、何かが引き立って見えるだろう。


やっぱり「枯れ木」って、なんかかっこいい!



お読みいただきありがとうございます。