道草の味

結果が同じなら、仕事量が少ない方が良い。そのほうが効率的だ。


結果が同じならいいのだが、結果が似ているという程度だったらどうだろう。


似ているようで、そのわずかな差異が重要な意味を持つかもしれない。そこを見紛うと、効率だけを優先したがために、本当は好ましくない選択をしてしまう可能性がある。


この「好ましいかどうか」というところに振り回されるのがわたしである。


結果は似ているけれど、かなり労力が増える手作りのほうと、労力最小限の大量生産品とだったら、手作りのほうが欲しいと思う。


ただ、労力が大きければ値段もつり上り、代償は大きくなる。そのへんのかねあいで、労力最小限の大量生産品を選択することのなんと多いことか……というのがわたしである。


まあ、そのことを楽しんでもいる。誰もが一度は口にしたことのあるような大量生産のお菓子の味なんかの話題は、通じやすく、理解されやすい。


じぶんの可処分時間を、じぶんのものだからという理由で、ついついエゴによって浪費してしまう……というのがわたしである。


結果を見据えて、それに辿り着くために最小限のコストでいけるほうを選べば良いのに、ついつい無駄足ふんで体力も時間も費やして、道草喰いながら歩みがちになってしまう。道草を食って、食い散らして、のんびりしたぶんだけ、到達できる点までの距離は短くなってしまうだろうに。


どうも、思い出尊重主義みたいなところがわたしにはあるらしい。


無駄なこといっぱいしたけど楽しかったよね、あの草食ってさ、むっちゃへんな匂いしたけど甘いのね!  意外だったわぁ、なんでもやってみなけりゃわかんないね!


みたいなノリで、道のりをゆく体験そのものを尊重しているみたいなところがある。到達できる点までの距離、その数字としての結果みたいなものを、軽んじているようだ。


そんな姿勢の先にあるのは、長年道草食ってのんびりしたことへの後悔だろうか。取り返しのつかない代償を、支払いに支払い切ってしまったことに対するコワ~イコワ~イ絶望感だろうか。


こんなわたしであるから、きっとそんなものを感じることはなく、じぶんで選んできた道だからということで納得して飲み込んでしまうに違いない。


ああ、なんとおそろしいことか。


のんびり屋は死ぬまで治らない。まぁ、せっかちでも、いずれ死ぬ。


のんびり行こうぜ。(ダメだこりゃ)




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