くすり、くすり。おクスリだなんて。

対症療法ということばが、批判的な文脈で用いられるシーンに出くわすことが多くなったと感じる。あちこちに問題を見出しては解決をはかることがなされているようであるが、実際は臭いものに蓋をしただけ、というようなことがある。蓋を開けてみれば臭いまま、だ。


問題が起こる前の状態に戻すというのであれば、セーブポイントからのやり直しと一緒だ。2度と同じ問題が起きないようなあたらしい体制をとる必要がある。それは元に戻すというより、てこ入れだ。つくりかえだ。革新だ。過去も現在も未来も、よく見ておくことでとれる体制だ。


特定の困りごとにピンポイントに作用する処置をするのは、まるで対症療法のそれだ。それよりも、あれにもこれにも対峙して、己の力ではねのけたり解決したりできる基礎体力を身につけることが、同じ問題が2度と起きないようにするどころか、より上を向いて変わっていける術だろう。「ある点に対処したがために他の部分に負担がかかった」では、新たな問題が生まれる。


筋力の弱い部分を見つけてそこを鍛えたら、いままで苦痛だったことが楽しくなったり、できなかったことができるようになったりする。


今は悪くなくとも、このままいったら悪くなる部分=弱い部分を見つけて、今できることをやっていくこと。のびしろが多ければ変わっていく己が楽しいだろう。モチベーションがあがらないなんて悩むこととは無縁である。


いま、すでに強い部分。そこが、未来に悪くなったり弱くなったりすることも考えられる。先回りしてそれに反応していけば、豊かな反響が得られて結果的に楽しくなる。


反応というと受け身な印象を受けるが、そんなことはない。結果が訪れるまえに反応すれば、誰も受け身だなんて思わない。先回りして反応した本人だけが、しめしめとこころの中で優越感を味わえる。楽しくて先を見たくなる。己を満足させる己、の連鎖だ。それは、まわりに伝播するだろう。


まだ対症療法をやっていたのね?  などと、未来の私に笑われる私でありたい。




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