家族だって、ゲストだもん。

あ、もう2月終わりなのですね。


山場を越えると、ホッとしますね。仕事の何かしらの本番だとか、催しものだとかです。あるいは、仕事でなくても、ですけれど。


憲法には、人間以外のものたちの権利について足りないところがある、というような解釈が書かれた記事を読んだことがあります。


先日は、2月22日。「ニャンニャンニャン」の語呂合わせからの「猫の日」、そこから、動物との共生などをおおきなテーマとしたさまざまな啓発、催しなどがほうぼうで行われたかもしれません。そうしたものごとに関わった方々、本当におつかれさまでした。ぼくはといえば……やっぱり週末にひかえた催しものの準備などをしておりました。動物とはあまり直接関連が深くない催しでしたが。


愛玩動物って、自然界のサイクルにおいてどのような位置にあるのでしょうね。人間の経済活動の道具にされている面が否定できないのが、この国における犬や猫についての現状なのではないでしょうか。もちろん、それ以外の側面も多分にあるのでしょうけれど。


話は違うのですけれど、ぼくは最近、一緒に過ごす家族との距離感だとか、家族というものについての価値観を、自分のなかで改めたところがあります。


なんというか、自分のことのようにし過ぎていたところがあるように思うのです。


自分のことのようにし過ぎる、つまり家族≒自分というような認識でいると、家族のメンバーに自分と考え方や感じ方が違うところがあると、ついついイライラしてしまったり、腹立たしく感じてしまいがちになります。


損得や善悪、公平さや公正さみたいなものをやたらに持ち込み過ぎないほうが、気持ちよく過ごせるのです。


自分は、自分。それが、家族ひとりひとりについていえるはずです。


言うまでもないあたりまえのこと、と感じる方もおられるかもしれませんが、家族というのは、その「あたりまえ」を見失いやすい物理的な近さにある存在なのです。だから、ぼくにとってその認識をあらためて持てたことが、新鮮に感じられるのです。


言葉のとらえかたの問題で、ひょっとしたら不快に思われる方もおられるかもしれませんが、ぼくが今、こころがけていることを記しておきます。


それは、そうした家族のような「物理的に近い範囲にある存在」ほど、「ゲスト」だと思うことです。


「ゲスト」だと思えば、自分の思い通りにならなくたって、腹が立ちませんよね。自分に尽くしてくれなくたって、何をしてくれなくたって、なんの不満も生じないと思いませんか?


「自分のことは、自分でやる」というあたりまえのことが麻痺してしまったときに、そのために何か腹立たしくなったりもやもやしたりイライラしてしまいそうになったときに、自分に言い聞かせる魔法のことば。


「(自分以外みんな)ゲストだから。」これです。


ゲストだと思えば、かれらにたいしていろいろと尽くしたり、支えたり思いやったりすることが容易になります。逆にかれらがぼくに対してそれをしてくれたときには、素直にありがたいなぁと思えるし、それを実直に表明することも容易になります。なんだか、裏がありそうなくらいにいいことずくめではありませんか??  


これは単に、ぼくのこれまでの「家族(あるいはそれに等しいような近しい・親しい存在)」というものに対する認識が、あまりよろしくなかったというだけなのかもしれません。あるいは、自分でも知らないうちに、先ほど「麻痺」ということばで言い表したみたいに、認識がズレてきてしまっていただけなのかもしれません。


そんなことを感じつつ迎える、きょうこの頃であります。


ここを訪れていいただき、ありがとうございます。