10kgの荷物を10km先へ

努力できること自体が才能という言い草がありますね。


ある人にとって「努力」に値するようなおこないを、別のある人は努力とも思わない、ということがあるようです。おなじ行為でも、「苦しい、苦しい」と思ってやる人もいれば、「楽しくて仕方ない」と思ってやれる人もいるのです。


そもそも、努力が「つらい」「くるしい」ものという認識が、間違いなのかもしれません。


いえ、部分的に「つらい」「くるしい」はあるかもしれませんが、それはよろこびと一体のものである、といえるようなものこそが、ほんとうに努力といわれるべきものなのではないかと思います。


おなじような負荷や負担がかかっていることでも、それをどのように表現したり評価したりするかが分かれます。


「10キログラムの荷物を10キロメートル先まで運ぶ」というおこないがあるとします。


それを「つまらなくて、つらい」と言い表したり評価したりしても、「おもしろいし、たやすい」と言い表したり評価したりしても、「10キログラムの荷物が10キロメートル先に移動する」という結果に、ちがいはありません。


なんのためにそれをするのかという目的や、その動機ひとつで、おなじ行為が同一人物に与える印象も違ってくるかもしれません。


それが、その人の希望や願いをかなえる道すじにあるおこないだったとしたら、身体に負担がかかることでも「いま、わたしはいきいきしている!」と思ってやれるかもしれません。反対に、それをしないと、その人の恒常性が損なわれるとか、望ましくない事態を招くからそれを防ぐといったといった動機や目的によるおこないだとしたら、そのおこないによって身体にかかる負担は、同時に心にかかる負担となるのです。


心とからだが同一のものだとするなら、そもそもうれしいと思ってやれることは、からだに負担がかかっているようで、かかっていないのかもしれません。


「10キロメートル先に10キログラムのものを運ぶ」というおこないを、その人のよろこばしい願いに向かってやったときと、破滅へのおそれや不安に駆られてやったときとでは、作業中のからだの使い方に差が出るでしょう。おなじ結果を招くおこないでも、どう取り組んだかによって、かかる負担に差異があらわれるのです。


同一の結果を招くおこないならば、平然とこなしたいものですし、そのこと自体がたのしければ、願ったり叶ったり。「努力が美しい」みたいな風潮が、すこしおかしく感じられるかもしれません。いえ、「努力が美しい」はよいのですが、その「努力」って、何を指して言っているの?  というところでしょうね。


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