我楽多 〜Ga-Ra-Ku-Ta〜

身近にインフルエンザの人が出た。ふだんわたしのめんどうを見てくれているその人が休んでいるあいだ、だれがわたしの世話をするのだろうか。わたしは夜な夜なすんすんと鼻を鳴らして泣いているとか、いないとか。


わたしも今月の1週目を乗り切ったあたりで、少し体調が崩れた。演奏の本番があって、そのあとのことだった。


本番に最高の体調がやってくるように自己管理したのだから、本番後に体調が下を向き始めるのは当然のことともいえる。本番後も体調が上を向いていたら、その上向きのピークに本番がくるように管理をしなかったら嘘である……というか、体調管理をはじめるのが遅かったのではないか?  という話にもなる。体調管理に「はじまり」の線を引くことなんて、できかねるようにも思うけど。


あるいは、ベストというのは、8割くらいのことをいうのかもしれない。


なんだ、もっともっとベストがあったじゃないか。おれもまだまだだな。次こそは!  という風に、ずぅっとやっていくのが、永続的なスタイルなのかもしれない。そういのが、ほんとうのプロなのだとしたら、僕はあまちゃんである。本気出し過ぎなのかもしれない。


2月は、あっちゅ間だ。28日までしかない。きょう、何日だっけ?  あれ、あと1週間しかないぞ。平日だけ数えたらそれ未満だ。休日だからといって、存在を消せるわけじゃないけれど。


毎日、何か考える。忘れないように、思い出せるきっかけとして十分なくらいの何かしらのメモを残しておく。そうやって残したそれらをつかって、何かトンカン工作しないことには、ただメモストレージがふくらんでいくだけだ。


あるいは、メモストレージをふくらますという儀式が、ほかにする何かしらのことの導入になっているのかもしれない。


あるいはあるいは、メモストレージに思いつきを入れておくという行為自体が、なきがらを棺におさめるようなことなのかもしれない。僕はすでに、アイディアから何かをもらっているのである。


アイディアという形を持った時点で、そのアイディアは円熟したのかもしれない。少なくとも、人に渡せる状態になったということだ。だからこそ、メモに書くことができる。


僕は僕に、おくりものをしているのだ。がらくたかもしれないけれど。うちは廃品屋じゃねぇぞ!  と、僕が怒り出す日も近いかもしれない。なるべく、ほかの人にあげるように心がけるべきときかもしれない。なるべく、がらくたじゃないものを……


がらくたに囲まれているのが、幸せという人もいる。……僕もそうか?


読んでくださり、ありがとうございます。