スキャン・チョイス・カクテル・サーブ

おんなじニュースが何周もするくらい、テレビを見続けたことがある。さっきのニュースとはちがう新しい情報がないか気にしてみるけれど、これといったものはない。おんなじ内容の繰り返しだ。


結局、他人からの情報のスキャニングとコピーでわたしのアウトプットができあがる。


スキャニングからアウトプットまでのあいだに、複数のスキャン済み情報の選別や、それらをカクテルする作業が入り込むほどに、参照元となる情報の特定は難しくなるだろう。


あんまりいろんなものを混ぜすぎると、なんの主張もないようなピントのぼけたアウトプットになる。手当たり次第に複数の絵の具をまぜたときの色である。


やはり、混ぜるものを選りぬく「目」をそれぞれが持っていて、そこにわたしたちはその人のアイデンティティを感じるようである。「目」とは感受器官のたとえであって、別に「鼻」でも「口」でもかまわない。


わたしの感受器官をとおして小さく感じられるものは、あなたの感受器官をとおして巨大に感じられるものかもしれないし、その逆もありえるだろう。


頻繁に話題にされていることのなかには、なぜそこまで騒ぎ立てる必要があるのか理解しかねるものがある。そうしたものに対して、なるべくだまっていようとしがちなのがわたしである。反対に、わたしがとても感動や衝撃をおぼえたものであったとしても、あまりおおげさにふれまわらないようにしてもいる。あなたにとっては、そんなにおおげさなことではないかもしれないからだ。


でも、そんな心配は不要かもしれない。必要ないと思ったことは、あなたもわたしも、頼まれなくたって無視するだろう。


なんだ、結局、わたしは無視がこわいのか。


それでいて、わたし自身、たくさんの無視をしている。


わたしにとってわたしは、とても脅威的な存在なのかもしれない。


何かにびくびくしている、そのとき。


その原因はきっと、自分にあるのだろう。