たまには、馬鹿になりたい。

だれもかれも「わたしは絶対にインフルエンザになるのだからいまのうちからこういう風に行動しておこう」とは、なかなか思わないのではないだろうか。「誰々が罹ったらしい」という噂を耳にしては、「こわいねぇ」「きをつねようねぇ」などと口にしてみるものの、ほんとうにわたしもやばいぞ!  今すぐにこれまでの予定やペースにブレーキをかけてでも対策をおこなおう!  とまでは思われないのではないだろうか。きっと多くの場合はせいぜい、それまでの予定やペースにブレーキをかけないでできる範囲の行動や対処を心がける、といった程度だろう(たとえば、マスクの着用を徹底するとか、より栄養のバランスが良さそうなメニューを選ぶとか、こまめな水分補給をおこなう、くらいのことである)


そして、嘆かわしい事態になってみれば、あのときもっと対処や配慮ができたのでは、などと思う。すなわち、マスクを着用するとか栄養バランスのとれたメニューを選ぶとか以上の、それまでの予定やペースにブレーキをかけたり、予定そのものを中止したり延期したりして、変更するレベルの対処や配慮が、である。


いつもいつも、何かしらの事態に陥ってしまったあとで、振り返ってみれば「あれが兆候だった」とわかることがある。しかし、そういったものの多くは、あとになったからこそ気づけることなのである。たとえ「あれは、あとにならなくても、あの時点で気づけるようなことだったのではないか」と思うようなことであってもだ。


どうしてかいつもいつも、過去のわたしはいまのわたしよりも愚かでならない気がしてしまう。案外、いまのわたしのほうが愚かかもしれない。賢いままでいることでさえ、ときに愚かなことのように思えてしまう。たまには、馬鹿になりたい。


あることができなくなったとか、おっくうになったとか、かつてとは違う方向を志すようになったとか、逆にこういうことが許せるようになったとか、こういう考え方ができるようになったとか、そういったもろもろの変化を、仮に歳のせいにしたとする。たしかに、それもあるかもしれないし、思い違いかもしれない。


固有名詞が覚えられないという人がいる。わたしのとても尊敬する人のなかにもそうした人がいる。覚えられないのではなく、必要がないから覚えないのかもしれない。その瞬間その瞬間では「いやぁ、名前が出てこなくて不便な思いをするんだよ」などとおっしゃるかもしれないけれど、きっとそのわたしの尊敬するそうした人たちやそれに似た人たちは、その記憶容量を他のことに用いて、多くの人のためになったり喜んでもらえたりするようなことを結実させているはずだ。その代償としてならば、わたしは何度でも自己紹介をしなおそう。それくらい、小さなことである。


歳を重ねても、いつまでも若いつもりでいがちだ。わたしもそうかもしれないし、あなたもそうかもしれない。身体の兆候から、その間違いを正そうとする。事実を正しく把握できていないことを露呈するのは、恥ずかしいことだと思う気持ちがはたらくのだろうか。恥じらいは若さの特権だというような気がするけれど、実際のところはいくつになってもきちんとはたらく感情であり、感覚なのかもしれない。




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