「関係ない」は、無関心のはじまり。

自分は何もしていないのに疲れるということが、本当によくある。


観戦や観覧や観賞は、基本的には観(見)ているだけのおこないである。


スポーツの観戦に、わたしはあまり興味がない。といいつつ、観たら観たでおもしろい。


興味のないものについてフォローすれば、必ずや発見があることと思う。


日課にしていることを休みにしてまで、時事的なスケジュールをねじ込むのは、なかなか大変なことである。「それまで通り」に動くことが、いかにわたしにとって楽なことかと気付く。


日課にないイレギュラーなことをすると、それが「観ているだけ」のおこないだとしても、どっと疲れるものだ。そのことは、決していやなものではない。長く記憶に残り、あとになって「一歩踏み出してみて良かったな」と思えるようなものがほとんどだろう。一時的に、感情が高ぶって嫌な思いをしたとか、早まって明らかな失敗をしたといったこともあるかもしれないが、落ち着いた頃にそのときの体験を振り返ってみれば、いまのわたしをつくる大切な経験だったと思えるのではないか。


興味のないと思っていたことでも、一定期間に渡ってフォローをつづけ、そのことに対してわたしなりのストーリーが持てるようになると、なんだかだんだんおもしろく感じるようになっきており、もはや「興味がない」なんてことはなくなっている。「わたし」との関係が築かれることで、どんなものでも興味の対象になるのだ。「関係ない」は、無関心のはじまりだ。


「観てるだけ」でも、だんだんおもしろくなることがある。「わたし」はたとえ寝っ転がって画面の前にいるだけだとしてと、何かとの関係を持ちはじめてしまうのだ。少し背筋を正したくなるけど、もう遅い。語りはじめに描かれた「わたし」は、ものぐさな人である。そこから先のストーリー展開に期待したい。





お読みいただき、ありがとうございます。いまは、リラックスして座っています。