不可侵な協力関係

ちからを持ったら、その使い方だ。


子どもに拳銃を渡したら、どんなことが起きるだろうか。


力を持ったとき、その力を行使した結果どのようなことになるのか、力を手に入れた者に「想像する力」がないとあやうい。


一方的に渡されたという経緯だとしても、武器を与えられたらそれだけで、武力という面についてのみ着目した際の「強者」になれてしまう。


力というのは、何か目的があったり、追い求めるものがあったりして、それに向かっていく過程でおのずと身についていくものではないか。そうした身につけかたが、まっとうな順番、といったところかと思う。




良い仕事も、やはり、何かしらに向かっていく過程で培われていくいろいろな力の結果だ。たとえば仕事の成果物としての「漫画」に着目した場合、最初は下手だった絵は上手くなり、話の構成はより自由で独創的なものになっていくだろう。




自分の痕跡が長く大事に保存されるだなんてすごい。




時代を問わず、多くの人にとって価値を持つであろう成果物は、長く、大事に保存されて、ときおり一般に向けて公開されるようなこともある。美術館にある絵だったら、開館中はずっと人の目に晒されている状態といっていい。長い期間にわたって人々が目にし、それぞれの胸にさまざまな思いを芽生えさせる。そこから新しいものが生まれることもあるだろう。奇跡的で神秘的な、すごいことだと思う。



作家がつくりあげたものが、つくりあげたその瞬間のかたちのまま受け手に届くことが、いちばん望ましいことかもしれない。


でも、多くの人が制作の過程に関わり、彼らの手が入り、さまざまな視点からのチェックや加工や手直しを経ることで、より長く、より広く、受け手に届くものをつくることができるとも思う。


もちろん、ひとりの作家がそれらのあらゆる過程における仕事をかけもちする可能性を否定するものではない。けれど、いろんな人が力を合わせることで、あえて皮肉を含ませたような言い方をすれば「お手軽に」、質の高いものをたくさんつくりだすことができるのかもしれない。



拡大したり縮小したり、編集や加工ありきで元のもの(原稿、原曲、原画……)がつくられることがある。けれど、どんな形で使われるのかという意味で、最終的な形が明確であるならば、その形に向けてなるべく、そのままただちに使えるように元のものをつくれば良いのではないかとも思う。間違えてもいくらでもやり直したり、手を入れて修正したりできるという前提の上にあぐらをかかない方がよい……そんな戒めを得るための前駆的な刺激になるような「良い仕事」が、この世にはいくつも残されている。



そうした仕事の方が、案外、ひとりの作家の強力なリーダーシップだったり、「独走(独奏、独創……)」の結果だったりするのではないか、とも思う。


不可侵な部分をそれぞれが持ったうえでの「力の合わせ方」というものがあるような気がする。そういう意味での「協力関係」は、たいへんにウェルカムなものだと僕は思っている。




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