カメラ(視点)を止める(留める)な!

あるものを手に取ることは、特段そのつもりがなくとも、他のものを切り捨ててそれを選んだ、という風にとらえることができる。


「いやいや、そこまでのつもりもないんだけど」「(選ばなかった)ほかのものでもまったくもってかまわないんだけれど」という場面は多い。


あるものを選びはしたが、べつのものを選んでいた場合はどうだったか、ということの比較は、つきつめていえば、できない。SFなどと呼ばれるような作り話の世界でなら、ある時点から分岐したパラレルワールドがその比較を可能にしてくれるかもしれない。パラレルワールドどうしが干渉したら、両者の秩序が崩壊してめちゃくちゃになるのでは?  なんておっしゃる人は、ぼく同様、作り話の鑑賞のし過ぎかもしれない。


どんなときでも、それなりになる。どんな道を選んでも、それなりにしかならない。


だからといって、どっちでもいいのだとまではいえない。全力で選び取った道だからこそ、振り返ってみて受容しやすいということもある。


最近、ある有名な殺人事件の被害者遺族が紹介していた言葉に、とても印象的なものがあった。「過去は変えられないが、過去の捉え方は変えられる」(細部が正確でないのはお見逃しいただきたい)といったものである。


「あのとき」に戻って、行動や選択を変えていたら、こうなったかもしれない、というようなことを言い始めれば、いくらでも挙げられるのではないか。とにかくなんでもいいから話のネタがほしいというような人が仮にいたらば、そんな「もし」を考えて表現すればいいのかもしれない。考える側がすぐに飽きてしまうようにも思うけれど、受け手を取っ替え引っ替えすれば(あるいはしなくても)、どんなに使い古されたネタも一時しのぎくらいにはなるだろう。その代表格ともいえるタイムスリップものだって、異能力ものだって、エロだってグロだってグルメだって……あまり好き勝手言うのは、ほどほどにしておこう。


論争ごっこに飽き飽きした問題は、確かにある。本当に、ある。


ボクシングのような格闘技だとか、サッカーのようなスポーツだとかを観始めると、ふといつのまにか、いずれかの陣営の目線に立って観戦していることに気付く。そのことが意識されたとき、すぐさまこれでいいのだろうかと目線を動かしてみたくなり、あえて意識的に逆サイドの目線に回ってみる、というようなことをする。


いつのまにかどちらかを(なんらかを)支持しているという、無意識の選択ってあるみたいだ。そうした選択がどんなことに起因するのか、個別に分析すれば原因や理由が見つかるのかもしれない。


その理由はともかく、今の視点を意識的に動かしてみるというのは、旅に似ている。転居することや、転職することや、恋や協働のパートナーを変えることにも似ているかもしれない。そんなにおおげさなことでもなくて、たとえば電車で偶然目の前に座った人を観察の対象にして、その人になったつもりで行動を分析していたけれど、試しにそのとなりの人にその対象を移してみる、というくらいのことについても、ある類似性を見出せるかもしれない。


「ああ、その目線、今までの自分になかったわぁ!」という感覚が味わえるものならば、なんでも良いのかもしれない。


映画だとか漫画だとかは、そうした「目のつけどころの面白さ」が問われる部分が、多かれ少なかれある。手に取っていれば、別の目線のお味見をすることに困ることはないかもしれない。


別の目線を味わって、新鮮な驚きや感動を得るためには、現在の自分の目線を強く自覚していることが必須なのではないかと思う。現実の自分の目線との対比によって、そうした新鮮な驚きや感動が味わえるのではないかと思うからだ。現実逃避が習慣のようになってしまうと、対比効果が薄れてしまうのではないか。


映画だとか本だとかを、湯水のように消化する人もいると聞く。そうした人たちは、新鮮な驚きや感動を味わうために映画や本を消化しているのとは違うのかもしれない。何か別の目的があって、映画や本を観たり読んだりするのも、もちろんいいだろう。そもそも、目的なんかなくても観られるし、読めるものだ。



目線を頻繁に移そうと試みがちな人のことを思う。はたしてそれは、僕か、あなたか。




最後までお目通しいただき、ありがとうございます。