抜け落ちた3文字

時刻は午後4時過ぎくらいだろうか。


閉まっている店が並ぶ。


カウンター席を設えた、大人の遊び場といった雰囲気の、個性的な飲食店がいくつもあった。人の姿はない。


そうした店の中に、いっそう個性的な雰囲気の建物があった。


これを、私の記憶の中で最も近い別のもので言い表すのならば、「蟻塚」だろう。土壁が両側から迫るようにして、訪れる者を奥へと導く通路があった。なぜか私は、吸い込まれるようにして通路へ足を踏み入れる。奥へ行くことが、私の使命であるかのように、私は進んだ。


土壁はニスのような(ややツヤは抑えめだ)もので仕上げられて、つるりと、あるいはさらりとした手触りに仕上げられていた。通路を行く途中にも、開店準備中らしい個性的な店がいくつもあり、中で店主がグラスを拭くなどしている。(それはむしろ閉店後にやる作業では?  と、振り返ってみて思う)逆さ吊りにされたたくさんのグラスが、光を透過したり反射したりして、輝いて見えた。ーーー自分がないのに、あるみたいだ。我が強いが、そもそも「我」そのものが存在しないーーー私は、逆さ吊りのグラスを見てそんなことを思いながら、どんどんと幅の狭くなる土壁の通路を奥へと進んだ。


やがて、もう限界というところまで通路の幅が狭小になった。壁と壁が触れそうだ。よく私はここにいられるものだと思った。決して大柄とはいえない体格のおかげだろうか。


壁と壁が接近しているために、上へと登って行けそうだ。だが、上へ向かって、壁と壁の間はさらに狭小になっている。さすがに、私の躰も挟まって動けなくなってしまうだろう。


だが、私は試してみた。壁と壁の隙間に挟まって、背中を壁に押し付けたり、腕や脚をもう片側の壁に突っ張ったりするようにして、もぞもぞと上へ登った。恐怖感を覚えるくらいに狭かったけれど、通ることができた。角度や、位置が微妙に違うだけで引っかかるところもあった。よく通れたものだと、我ながら思う。


そこは、ライプハウスのPAルームのような場所だった。そこにいた者からは、地上階から上がってきた私が、ひょっこり頭を出したように見えたかもしれない。栗毛色のニット帽を被った男がそこにいた。雇われ店長のような女性もいた。ろくに話もしていないし、観察だって十分でないのにも関わらず、私の目にはなぜだかその女性が「雇われ店長」に見えたのだ。


そのフロアの奥は、吹き抜けになっていて、下のフロアを眺めることができた。下のフロアの壁際には、2個のスピーカーが離されて置かれていた。それらのスピーカーの前で、帽子や外套を身に付けた男が、頭を振っている。躰を小刻みに揺らす者もいる。客どうしの干渉は見られない。こじんまりとしたフロアに、まばらに人がいた。スピーカーからは、音が鳴っている。歌声と、バックトラックだ。


後ろを振り返ると、先ほどの栗毛色のニット帽を被った男が、マイクロフォンを手に歌っていた。下のフロアでスピーカーから出力されている音の源だった。スピーカーの前にいるのが客だとすれば、演者がここにいることになる。客は、からっぽのステージ(とはいえ、ただの空間だ)を前に、頭を振ったり躰を揺らしたりしている。なんとも滑稽だ。


日を改めて、私はあのときPAルームのような場所にいた、雇われ店長風の女性に話を聞いた。あるいは、あのときよりも前だったかもしれない。あのときが、私がその場を訪れたのが初めてでなかったのなら、私が女性のことをいきなり「雇われ店長」だと思ったのも納得できる。いや、それでももやもやとしたものが残るかもしれないが……


女性が話した内容からの理解か、自分で感じ取ったことによる理解か、混沌としてしまってよくわからないが、あのとき訪れた場所に対しての、今の私の理解はこうだ。ーーー演者が観客の前にいないという、これまでにないコンセプトの、新しい表現の場ーーー




思えば、あの街には、人の往来がなかった。私は、あの土壁の建物に入るまでは、誰にも会わなかった。建物に足を踏み入れたあと、見かけたいくつかの店にあったのは、店主らしき人物の姿だった。客らしき者は、だれもいなかった。一方、あの、ステージのないーーーからっぽのステージのーーーライブハウスにいた客は、演者(酒場でいえば、店主だろう)に出会っていないことになる。あの街からは、「出会い」がすっぽり抜け落ちてしまっているようだ。もしかしたら、「私」は存在しないのかもしれない。