「ぼく」の経営者

インフルエンザの猛威、か……もういいね。


いきなり駄洒落でスミマセン。歳をとって少し馬鹿になったのかもしれません。いえ、そこを擁護する表現に言い換えるならば、少し何かが緩くなったといいますか、「あそび」が増えたのかもしれません。




病気休暇や治療をコストという側面で見るのは、いかにも経営者、あるいはビジネスパーソン的な視点である。


病気で休んだ人の分まで仕事を引き受けたり、フォローしたりする人にかかる負担まで鑑みてコストという側面で見るのは、いかにも経営者、あるいはビジネスパーソン的な視点である。


いつもより丁寧に手洗いうがいをするとか、いつもよりさらに健康に気を遣って食事や睡眠をとるとか、「病気にならないように気をつけること」そのものさえも、コストとして具体的な数字にして計上までするのは難しいとしても、鑑みるべき要素として見るのは、いかにも経営者というかあるいはビジネスパーソン的な視点である。



先日、インフルエンザにかかったということが判明している人が、どうしてもやらなくてはならないと判断したであろうことを済ませるために、僕らの元にやってきたことがあった。僕は、その人が帰ったあと、最後にいつ使ったともわからない、その場に置きっ放しになって、古くなってしまっている消毒液を使って入念に(できているかわからない)消毒をし、やはりいつもより入念に手洗いとうがいをした(つもりだ)。



不安や警戒心があると、いつものようなフルスイングができない。そのことが、コストだ、負担だ、というのはすごくよくわかる。


最近僕は個人的に、自分が毎日の日課としていて、同時に生きがいそのものでもある行いにともなって、不安なことがあった。それ以来、その日課であり生きがいそのものにあたる行為をしていても、どうも落ち着かないというか、いつものような充足感を得られず、生きた心地がしないという感覚を味わっていた。つい最近のことなので、それは今もなお、続いていることでもある。


気持ちが縮こまるということは、致命的なことだと思う。


気持ちは、いのち。


どんなおこないも、「ゆずれない、いのち」としての側面がある。


それを、おもいっきり行使できることは、しあわせそのものだ。そのために生きている、とさえ思う。


不安や警戒心を抱かざるをえなかったり、気持ちの縮こまざるをえなかったりするような機会に直面することは、少なくともそうしたしあわせの根元がなんなのかを自覚し、実感する機会として利用せねば、ただのコスト、負担と言わざるを得ないのである。


いかにも経営者、ビジネスパーソン的な視点であろう。



ぼくは、「ぼく」を経営するビジネスパーソンなのだ。




お読みいただき、ありがとうございます。