違う人

習慣というものがある。


習慣どおりにすると、楽だ。考えたり、悩んだりして、エネルギーを費やして「選考、決定」することを省略できる。


そのかわり、たくさんの「変化」を見逃すだろう。昨日までの状況(先月でも昨年でもいい)だったら、楽をして習慣どおりにして良かったかもしれないが、現在は情勢が変わっている可能性が大きい。習慣どおりにして楽をすることには、そうしたリスクが伴う。


そこで、「そういえばおれ、最近〇〇してないなぁ」とか、「そういえばおれ、〇〇に興味ねぇなぁ、〇〇についてよく知らねえなぁ」とか、「〇〇の魅力がよくわからん」といった気付きが役に立つ。


気付きが役に立つというのもなんだかヘンな言い方かもしれないけど、とにかく、まだ自分がよく知らない物事がそこにあることに気付けたということは、自分のそれまでの行動や思考回路、習慣をアップデートするチャンスなのだ。


よく知らないことの存在に気づくのもいいし、逆に自分がしてばかりいることに気づくのもいい。何かが習慣になっていること自体に、本人が気づいていないことが、結構あるのではないかと思う。


そういば、おれ、競馬に興味ない。


そういば、おれ、野球を観ない。


そういば、おれ、最近ラーメンを食べていない。


そういえば、おれ、最後に1週間以上続けて休んだのはいつだっけ?


そういば、おれ、そういば、おれ……


こうした「そういえば、おれ……」は、発見のタネなのですね。「そういば、おれ……」を取っ掛かりにして、興味のない分野の発掘や、未発見事項のあぶり出しができるのですね。



最近最大の「そういえば、おれ……」が何かないか、思い浮かべてみる。


なかなか浮かばない……でも、もうちょっと考えてみる。


「そういえば、おれ、あんまり感情任せに行動したり発言したりすることがないかもなぁ……


だろうか。


だれかに感情的に当たられることがあると、理不尽だなぁと、こちらはいやな気持ちになる。


だけども、あまり感情を見せない僕の態度だったり、基本的に理屈どおりで合理的な行動を優先しようとする考え方に根ざした僕のあらゆる態度が、感情に突き動かされている相手にとっては余計に苛立たしいことだったり、理解し難いことだったりするのかもしれない。


とはいえ、もちろん僕にだって感情がある。感情がないことには、こうしたことにだって気づけないだろう。ただ、誰かに感情をむき出しにされて嫌な思いをした経験から、僕自身はなるべく他の人に感情をむき出しにして当たらないようにしよう、という心理がはたらくのだと思う。その心理がはたしてちゃんと機能しているか、自己評価と客観的観測は一致しないかもしれないけれど……


自分がそうしたタチの持ち主だからこそ、感情を観測しやすい人、感情をわかりやすく表に出すタチの人と関係を築くことは、僕にとって大事なことなのかもしれない。自分とは違うタチの人だからこそ、そうした人を観察することに伴う発見は大きいし、そうした人と関係を築く上での苦労はきっと大きな財産になるのではないかと思うのだ。


自分が必ずしも、感情をわかりやすく表に出す人になる必要はない。たとえば、頭の良い人になる必要もないし、イケメンである必要もない。金持ちになる必要もない。もちろんそうであってもいいのだけれど、そうでない人、すなわち自分とは違う人を見て、関わったり関わらなかったり(干渉しないように見守ったり)、そのへんの塩梅がどうやったらいい加減になるだろうか……といったところで、僕らは生きている。




まとまりのない拙文におつきあいいただき、ありがとうございます。