エントランスへは前向きに

強いられるわけでもなく、課されるわけでもなく、自分から触れに行くことについて思う。


勉強や学習の題材として、古典的なものが取り上げられることがある。


長く残ってきたものの中身を本当に味わうには、「翻訳」が必要かもしれない。今、自分たちが日常的にコミュニケーションに用いていることばとは、いくぶん違う姿かたちをしたものでその中身が綴られている場合、その姿かたちの相違の壁を超えさせる翻訳能力がないと、簡単には味わえないかもしれない。


ただ、その簡単には味わわせてくれない障壁こそがシェルターの役割を果たして、その古典的なものを長い時間を生きながらえさせることにひと役買ったかもしれない。中身を味わいきれていない人がたくさんいても、これはどうやらまだまだ未知の魅力が詰まった、とても大事にすべきものなんじゃないかということを、やはり同様にたくさんの人がそれとなく感じるのである。ある意味それが、障壁ありきでも滲み出てしまうほどの、そのものの本来の魅力、味わい、おもしろさなのだとも思う。


何かを専門的にやるということ、その道を深く全身で体得しようとすることに伴って、かえってそのものに対する抵抗感が生まれてしまうことはないか。いつでもリラックスして、ありのままに向き合って、わからないことにはわからないと言い、「よくわからないけどなんだかいい匂い」などと軽はずみに言ってしまえるような素直さを、失ってしまうことはないか。


おもしろさを本当にわかっている人の心の底からの感動が、周りの人に伝播するということもあるのかもしれない。そうした感動の中心にいる人たちのようにはわからないけれど、なんだかすごいものに出会ったように多くの人が感じる、ということが起こりうるのかもしれない。


深く学んで、掘り下げてみれば、当然たのしい。感じられる魅力は倍増する。その道への入り口は、いつでも開かれている。


自分の意志で、前を向いてその扉を開けて入っていけば、未知の光景が果てしなく広がっている。


誰かに押し込められて、むりやりお尻から入って行ったのでは、それまで自分がいた世界を未練がましく眺めているだけだ。背後には、心動く可能性に満ちた光景が広がっているかもしれないのに。


自分の意志でしないことには、見ているようで何も見ていないことになる。持たされた何かの価値も、使い方もわからずに、手放せるときを今か今かと待っているようでは、ただの重荷である。


そのものとの出会いが必然であったように感じられるのは、意図してか偶然かは別として、前を向いてやってきた自分の姿勢があったからだ。




おつきあいいただき、ありがとうございます。