夢と現実の小さな映画祭

2018年は、かなり映画を見た年だった。


もともと僕は、頻繁に映画を見るほうではない。そんな僕がいう「かなり映画を見た年」なんてのは、もうほんっとに大したものではない。頻繁に鑑賞する人にとっては、朝飯前に観終わるレベルの鑑賞数だろう。


でも、広く公開されていてとても話題になった規模のものから、ミニシアターやごく限られた場所・機会でしか観られないようなものまで、とくに年の後半にいろいろ観た実感がある。


印象的だったのは、地域の市民映画祭に行ったことだ。


予算のかけかただとか、技法のバリエーションだとか、作り手の技量や経験値までさまざまで、個性的な作品がいろいろ観られた。


規定があるので、1作品につき、長くても20分程度だった。そうした尺の作品を、半日かけて10~20本くらい上映する映画祭だった。


色んなところで色んな人に語られていることだろうけど、昔より、映像や音を収録できる機材が簡単に手に入るようになった。


個人レベルでも、最低限の映像と音を調達して作品として形にできる、下限が広がったような印象だ。


質的に劣悪なものの数が増えたという意味もなくはないが、むしろ、映画がいろんな意味で、小規模に受け応えされうる媒体になってきた、とも言える。


そういえば、吉祥寺のパルコの地下に、アップリンクという映画館ができたのも、昨年末ごろの話だ。


大きくても100人くらい、小さいものは30人くらいという規模の席数がある空間を、いくつか持ち合わせた映画館だ。


上映される作品のタイトル数はかなりのものになる。廊下に沿ってずらりと配架されたチラシが壮観だった。


上映作品のテーマもさまざまで、映画を日常的に観ない人でも、興味の湧くタイトルが必ず一つはあるのではないかと思えた。


多様化、多様化と耳にタコができるくらいに言われるし、僕もつい口にしてしまう。僕が浅く狭くしか知らない映画の世界についても、それを感じる。


僕は、社会教育に携わる仕事をしているので、ネタの宝庫である。


小さなロットで、あらゆる業界がまわる。


映画だけじゃない。出版でも音楽でもなんでも、あらゆる規模のあらゆるネタが、世界中をストレージにして眠っている、活動もしている。


そういったネタたちを関連づけて、別の視点を含ませて、二重、三重に提示しなおすようなこともさまざまおこなわれている。僕の今の仕事にも、そうした側面が少なからず含まれているし、あらゆる人のいろんな仕事についても、おんなじことが言えるんじゃないかと思う。


厳しい世の中だとも思うし、おもしろい世になったとも思う。夢がないぶん、現実がある……のかもしれない。


おつきあいいただき、ありがとうございます。