先輩、先生はなんて言ったん?

上達するということには、日々のつまらない反復が伴うのではないか。


実際的で細やかな改善を試みることは、真理の枝葉にあることかもしれないけれど、そうした枝葉をたくさん繁らせることで、幹の様子が浮かび上がってくる部分もあるのではないかと思う。


幹のことを、直接、幹のことをわかっている人がわかっている人なりのことばやおこないで表す、ということがあるかもしれない。でも、そのことを、まだ今は幹から遠い存在の人と分けあえるような形にしてくれる、仲介者のような存在……深遠で尊いものとの間に立って注釈をつけてくれる者が、枝葉周辺にある者には必要なのかもしれないと思う。幹そのものだったり、幹のごく近くにある者が仮に「先生」だとするなら、先生の表現に注釈をつけたりわかりやすいかたちに咀嚼してくれる存在が、「先輩」なのかもしれない。


「先生」のような存在と「先輩」のような存在は、いつも綺麗に分かれているとは限らない。「先生」のようでいて「先輩」のようでもある、という中間的な存在もありうる。そもそも中間的な存在が「先輩」なのだとすると、中間的な存在に対して微修正をかけるような言い表しかたかもしれないが、わかりやすく言えば、先生が仮に「北」で、私が「西」だとすれば、先輩は「北西」、先輩と先生の間にある者は「北北西」といったような具合である。先輩よりも私に近い存在であれば、「西北西」である。わかりやすく言おうとしたつもりだが、余計わかりにくくなっていたら申し訳ない。


方位に、優劣はない。西にいる者が北を目指したが、そこに至ったところで東が見えてきて、いつまでも北にとどまるわけにはいかなくなって、そこから東を目指すことにした……というように、歳を重ねて、経験を蓄積して、ある者にとっての先生のような存在になったとしても、また別の先生や先輩が現れるのではないかと思う。


人生において、ある人にとって目指すべきところが潰えることはない。その意味で、歳を重ねて経験を増やしていくことを悲嘆することはない。それに伴うおそろしさを感じることは、方位とは別の次元の、たとえば天地方向の次元の話なのかもしれない。新しい次元の広がりも含めた視野の広がりには、終わりがない。閉塞感を取りのぞく道は、必ずあるだろうと思う。



抽象的な話に終始しましたが、おつきあいいただきありがとうございます。