チーム・僕

「東京が中央」みたいな考えが強いのはどうしてだろう。でも、多様な暮らし方や価値観が認められ始めたいま、もはやその「中央一強」的な考え方は滅びかけているといってもいいかもしれない。


東京大学は、入学するより卒業するほうがずっとむずかしいと言われる。僕が入学したから言われたのではなくて、入学する誰かが誰かから言われたであろう言葉を又聞きしただけである。


「どこで何をするか」の制約は、かなりなくなってきたといっていい。そのことを手伝ったのは、まずネットワークの性能と環境の発達と向上だといっていい。どこにいても、仕事の成果を共有することができるようになった。家やカフェで仕事をする人たちのことをノマドワーカーとか呼んだ時期があったかどうか知らないが、その人たちが時代の象徴みたいに語られたことがあったであろうことは、多分間違いない。


チームスポーツというのは、チームあってこそである。当たり前のことを言って文字を嵩ませた。会議も、「会う」人があってこそである。合意も、「合う」意があってこそである。食事も、「食べもの」があってこその「事」である……(このへんにしよう)


チームは、個人の集まりだ。個人という単位がある。チームをつくる「個人」は、流動する。中身がそっくり入れ替わってしまっていても、相変わらず同じ「チーム」として扱うことがある。その中身があまりにも変容してしまっていると、そのチームのファンに「変わってしまった。もはやこれまでのそれではない」と嘆かれることもあるかもしれない。


個人はいくつものをチームを渡り歩くことがある。かつて籍を置いたチームを敵として戦うこともある。傭兵さんみたいである。


チームは個人の集まりだとしても、そこに蓄積されるノウハウがあるだろう。ローカルルールみたいなものもあるだろう。習わしや言葉遣い、儀式みたいなものもあるかもしれない。やはり、チームとは個人の集まりという要素だけで語ることはできない。だからこそ、チームとしてまとまる意味を持つ。


あるチームの中に入ってみていろいろ経験してみたい、となった場合、そこで経験できることとして期待される要素には、そういったローカルルールや文化・風習など、そのチームが持つ集団・組織としての特色みたいなものがあり、そこにチームとしての個性や魅力があるしるしだと思って良いだろう。そういうチームなら入ってみたい。そういうチームをつくってみたいとも思う。でも、そういうチームにすら入りたくないとも思う。一生イヤイヤ期の個人、それが僕だ。



イヤでもないんですけどね。それが生きるということだという気もします。