ぬか喜びだとしても。

案外、根拠なく期待したり希望を抱いたりすることによって、自分の精神は保たれているのかもしれないと思う。


それも、なるたけ根拠がなかったり、明確に示せなかったりするほどにいい。根拠を明確に示せるようでは、具体的に未来が見えてしまってつまらないようにも思える。


ということは、僕の考える(考えるというほどたいそうなものではない、なんとなく思い込んでいる)期待や希望というものは、ぼんやりとしているもののことを指しているのかもしれない。そういうものを勝手に、期待や希望と呼んでいるのだ。


たぶん僕の中では、道筋が具体的に見えていたら、期待や希望とは呼ばず、計画とか予定と呼ぶのだと思う。


こうした自分の持つ言葉の定義がどれだけ正しいかわからない。それら自分の持つ定義がどれだけ出鱈目かについて書きあらわすだけでも、みるみる嵩が増していく。なんて適当な男だろうと我ながら思う。


でも冒頭で示したように、このことによって僕は多分に助けられている。どうしてそんなに、なんの根拠もなく希望的に観測できるのか、ノーガードでリラックスしていられるのか、と他者に指摘されかねないような態度で過ごしている時間のストレスフリーさによって、僕はなんとか自分のバランスを保っている。


自分を、極端な奴だと思っている。そういう自認がある。とても、平均的な奴だとは思えない。無根拠に楽観するこの性質、いや、あえて能力と呼ぼう、この能力があるからこそ、僕は社会に向かい合い、折り合える。そんな気がしている。


自分を平均的な奴とは思えないと述べたけれど、これもかなり思い込みが入っているかもしれない。自分の平凡さに嫌気が差すようなことも、頻繁にある。まじまじと思い返せば、そのことに気付く。すぐ調子に乗ってしまって、調子に乗っている最中には調子に乗っていることに気付けない。こっけいな奴である。それが僕だ。


どこかでバランスを崩してしまっては、もはや生きていない。いま生きているということは、少なくとも最低限のところかもう少し安全域の内かどうかは別として、バランスが取れているということだ。


あえて極端に言ってみる。生きているということは、どこかしら馬鹿なのだ。鈍さみたいなものを大なり小なり持っている。だからこそ、生きていられる。


鈍かったりセンシティブだったり、1人の人物について追ってみたとしても、両の極の間で振れ幅があることだろうとは思う。


自分の鈍さ、馬鹿さ、抱く楽観や希望や期待の無根拠さを自覚できるということは、喜んでいいことなのではないか。たとえそれが、ぬか喜びだとしても。




最後まで読んでくださり、ありがとうございます。