独自か凡庸か、力か運か。

古いというのもとらえようだ。古いということがいいこととしてとらえられることもある。


悪い意味としてとらえられるとき、「古臭い」といったニュアンスに近い。かつてはいいものだったかもしれないが、すでにその価値を失っている。無視ができる程度の存在ならまだいいけれど、現在の価値にとって邪魔になるものだとしたらやっかいだ。


古くても残っているということは、人間の選択という作業を経て残されてきたか、淘汰されずに残ってきたかだ。そうした何かしらの強さがあることになる。その強さがなんなのかをつきつめる行為は、現代人にとって価値があることだと思う。いろいろと学んだり、発見したりすることがあるだろう。


新しいものは、まだ実績の蓄積がない。今後も長く残され、語られ、大事にされるかどうかがわからない。


でも、ちょっと待てよ。すでにあるものの焼き増しのようなものだとか、真似ごとそのままのようなものだとか、二番煎じのようなものだとかは、ごく最近作られたばかりのものだとしても、新しいとはいえないような気がする。


古くても、今も大事にされ、残されている(そのもの自体の強さが、人びとに、世界に、大事にさせ、残させている)ものって、他に似ているものがない、唯一無二の存在ではないだろうか。世界遺産か、文学や芸術の作品か、なんでも構わないので、古くても残っている(残されている)ものを思い浮かべてほしい。あなたの思い浮かべたそれは、きっと代替のきかないような、独特で個性的なものではないだろうか。


ごく最近作られたばかりのものの中でも、他に代替のきかないような独自のものこそが、真の意味で新しい。今後、それに似たようなものが作られつづけ、ある「強さ」の面でより勝るものが現れた場合、ある瞬間・ある時点では独自の存在だったとしても、淘汰されてしまうものもあるかもしれない。


新しさと古さは、独自性・ユニークさといった面で、とても似ているところがあるかもしれない。そこに「強さ」を備えて、長く残るものにならなければ獲得できない価値が、「古さ」にはあるかもしれない。あるいは、「強く」なくても、たまたま運良く長く生き延びたために「古さ」を獲得したものも中にはあって、そういった「強くもないけど、古いもの」こそが、「古臭い」のかもしれない。


「淘汰に耐えうる強さを備え、かつ個性的で独自のもの」こそ、真に「古く」、真に「新しい」ものなのかもしれない。



複数の人間による会議で決めてつくったものは、無難になりがちだ。その成果物の多くは、長くは残らないように思う。合議に従った行為とは、そもそも、より多くの人がその場だけをしのぐという志向なのかもしれない。大きな犠牲を差し出し、一握りの存在が生き残ることに伴って生み出されたものは、多くの場合、ある「強さ」を備えているのではないか……そんな風に思えてならないのは、僕だけだろうか。




「独裁」のようなものを全面的に肯定するわけじゃないのですが、「強さ」というものには、そうした側面があるんじゃないかなあ……


おつきあいいただき、ありがとうございます。