万年SNS見習い

他人の気持ちなんて、わからない。自分の気持ちでさえ、すべてはわからない。わかったような気になりがちなぶん、自分の気持ちのほうが、むしろよくわかっていないのかもしれない。


20代の女性、就いている仕事はどんな職種で、平日の生活と仕事のスケジュールはだいたいどんな感じ、休日はどんな感じで、SNSをいくつもやっていて、中にはひとつのSNSでいくつものアカウントを使い分けていて、現在恋人はいないが結婚願望がないわけでもなく、異性交流を含んだ娯楽的な活動が半ば趣味になりかけていて……などと、架空の人物像をでっちあげてみる。このような人が実際にいそうな気もするし、僕なんかがでっちあげたこんな人物像に当てはまる人なんか実際にはいないようにも思う。いくつものSNSを渡り歩いたら、このような人を見つけ出すことが出来るかも知れない。その人の存在にリアルさを感じたり、共感したりできるかどうかは別として。


仮にいたとして、この人の気持ちが、果たして僕に分かるだろうか。果たしてこの架空の人は、どのような場面に出くわしたとき、どのような感情を抱くのか……いっしょうけんめい想像はするけれど、その当てずっぽうさに自分で嫌気がさすくらい、僕は人の気持ちをわかりたいと思う一方で、本当のところを察する能力がないようにも思う。


こういったことを、商売をする人はよく分かっているべきなのかもしれない。こういうものを、マーケティングとでもいうのだろうか。「商売をする人」と仮にあらわしたけれど、営利を目的とするあらゆる会社や組織にとって重要なことだろう。買ってくれる人の存在なしには、売れないからだ。売れなければ、会社の命はないからだ。僕にもしそのあたりのセンスがもういくぶんあれば、まったく違った人生があったことだろう。そうした世界から逃げるようにして今の位置にいるような気もするし、そうした世界から排除された結果かもしれないとも思う。


世界が、「つながっていることが当たり前」の状態になっていくほどに、なんとなく、僕はつらい。息苦しいとも思う。「オンライン」の強要だ。いや、誰も強いてなどいないのだけれど。


じゃぶじゃぶの情報の海に、たくさんの人が生きている。すいすいと表層をうまいこと泳いでいく人もいれば、沈んでいく人もいる。僕を含めた多くの人が、なんとなく自分の意志で泳いでいるような気がする瞬間と、大きな潮流に抗えずに力なく流されて無力感に苛まれる瞬間とを、半々か、あるいはもっとアンバランスな配分かは知らないが、併せ持っているのではないだろうか。


じゃぶじゃぶの情報の海を、はるか上から眺める峠の仙人のような存在に憧れる。そんな海の表層を、スイスイと迷いなく行くスイマーを羨ましくも思う。光も届かない、深い水底に黙するラスボスの存在に怯えもする。そんな僕が、ある者にとっては、ある基準によっては、その仙人にも、スイマーにも、ラスボスにもなるだろう。


びくびくしながら、じゃぶじゃぶの海に、出たり、入ったり。いつまで経っても、慣れることがない。



「いまどうしてる」を垂れ流すことの「見習い」をずっとやっている……そんな感じです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。