甘え合い、会え、まあ。

甘えられない性格だ。自分のことをそう思っている。なるべくなんでも、自分でやろうとしてしまう。自分でできる範囲のことを選んでいる。


今はできないことでも、そのうちできるようになることもある。続けることがそれを可能にするだろう。そうした可能性を感じるものには、手を出すことがある。今の時点では自分にできないことでも、その入り口に立って、門を叩くことができる。


仕事には、ひとりではできないものがたくさんある。自分にはできないことでも、今、それができる人がほかにいる。そうした人の力を借りることで、ひとりでは成し得ないことが実現する。仕事の醍醐味のひとつは、そういったことかもしれない。


かもしれないなんて言うには、理由がある。ひとりで達成する醍醐味というものもあるからだ。孤独な作業の積み重ねの先に、味わえる何かがある。


未来の自分に甘えているのかもしれない。今の僕にはできましぇん、入り口に立って、門を叩いて、なんとか開いたらホフク前進してでもじわじわ行くから、どうか未来の僕よ、今の僕にはまだ遠いどこかに立ってください、お願いしますという感じだろうか。それを甘えというのは、だいぶ無理があるようにも思うが……つまり、僕は甘え下手なのだ。


最近、僕に2番目の子が生まれた。妻が、夜中に産んだ。上の子は2歳半だ。病院に上の子を連れて、妻と下の子に会いに行った。上の子は、妻に甘えて見えた。いや、妻が上の子に甘えていたのかもしれない。僕は、下の子に甘えてみることにした。下の子は、眉間にしわを寄せて、手足をもぞもぞも動かしてみせたのち、眠ってしまった。僕も、そのへんに転がって少し寝た。


自分がどうにかできないことは、他の人がどうにかするだろう。どうにかできる人がどうにかする、ということの連鎖や連携で世界が成り立っている。僕にしかどうにかできないことも中にはあって、誰かを僕が甘えさえているのかもしれない。甘えている自覚がないだけで、僕も日々たいへん甘えてばかりいるのだろう、その力のある誰かに、あなたに、いろんな人たちに。


たまには、じぶんが他者に甘えていることは何かと考えるべきかもしれない。まじまじと自分を見つめて、甘えの自覚を得るための時間を持つといいだろう。そう、今も僕は、未来の自分に、あるいはすべてのあなたたちに、甘えている最中だ。




今年もおつきあいいただき、ありがとうございます。