餅と警戒

年末だからといって、何が変わるというわけでもない……なんてことをいいたくなる。それでいて、やっぱり「ああ、1年が終わるなあ」なんて感慨がなくもない。結局僕も、いかに社会に包含されて生きている存在かということを実感する。年末とは、そんな時期である。


僕の年末と年始の休みは、合わせて1週間もない。なのに、このまとまった休みに、なにか特別なことが出来ちゃいそうな気がしてしまうのは、休みに入ったばかりの今だけのバイアス効果みたいなものだろう。(バイアスの意味、合ってます?)結局なにも出来なかったなぁ……という敗北感のような虚無感に包まれながら働き初めを迎えることを想像して、これではいかんと、何かを成し得ようと努力をすぐさま始める……ほどの賢明さの持ち主でもないところが、僕の幸せでもあり、不幸でもある。ナンギなものである。



僕は、クリスマスという「盛り上がり」に、それほど積極的なわけじゃない。ああそういう季節か、と知らせてくれる、スマホアプリの通知みたいなものである。……なんていっておきながら、ケーキを目の前に出されたら食べるし、お茶も飲むけれど、クリスマスがなくなったら、いっちょまえにさびしがるかもしれない。つくづく、社会に包含されて生きているなぁと思う。ひとりじゃないのだ。(うれしいことだ)(わずらわしさのタネでもある)


いつの間にか、お年玉をあげる側の立場になった。今でも、もらう機会もある。じぶんの子どもは、まだ小さい。(2歳)けれど、そろそろなにかあげてもいいかもしれない。姪っ子や従兄弟には、近年なにかをあげるようになった。(なにかといいつつ、ようは小銭)


学齢期だった頃には、僕も書き初めなんかをやった。宿題として出されるからだ。お習字なんて、もう何年もやっていない。あれは、僕にとっていくぶん季節を感じるものだった。もともと筆と墨で字を書くという行為は、なにも1年のはじまりだけにやるものじゃなかったろうに。書道の先生は、ほんのわずかに忙しくなる季節なのかななどと想像する。(あるいは、そうでもないのか)


大晦日には、毎年かならず出かけていた。近所のライブハウスのカウントダウンイベントに出演したり、夜中のうちに初詣に行ったりしていた。子どもが生まれてからは、あまりそういったことはしていない。規則正しく、律儀になったのかもしれない。


実家の父が、つきあいのあった和菓子屋さんからお餅をいただく。それの、おすそわけをわたくしどもがいただく。また、妻方の実家からもお餅が送られてくる。食べ過ぎて太らないように、ということばかりを考えている。年末・年始は、僕にとってそんな季節である。



もう年明け以降にしか会わないだろうなという人には、「良いお年をお迎えください」と申し上げて、ふかく頭を下げた。2、3人よりはずいぶん多くに対してそれをした、ここ数日の僕である。




ことしもたくさんおつきあいいただき、ありがとうございます。