食卓の役割 〜料理は会話の「モブ」じゃねぇ〜



クリスマスと日本人


クリスマスイブの朝。いつも通りごはんを食べたあと、スポンジケーキに生クリームを塗りつけて、苺やブルーベリーをじぶんたちで盛り付けた。それを午前中に食べて、1日おなかが満たされっぱなしの状態で過ごした。その影響もあって、夜は、冷蔵庫の残り物をつまんで済ませた。


今年は24日が振替休日だったために、本来なら25日にやるであろう「儀式」を、ひととおり24日のうちにやってしまった。家族の中でプレゼントを贈り、サンタの仕業にするというものである。


クリスマスやクリスマスイブにする食事に、魚を用いた和食を選んだとしたら、なかなか趣味がいいと思う。というかそもそも、クリスマスやクリスマスイブと認識される側面のある日というだけで、必ずしもいつもどおりの1日を揺るがす理由にはならない。ついつい、油脂や乳脂肪や、塩分・糖分に満ちた食事を摂り過ぎて、あまり良いとはいえない体調にみずからを仕向けてしまいがちだ。もともと日本人には関係のなかったイベントを輸入してきて、ガラに合わないから騒ぎをしている……なんて言ったら、クリスマスを純粋にたのしんでいる人たちに水を差すようかもしれない。日本人のなかにも、本当にみずからの信仰にしたがって行事にのぞんでいる人だっていることだろう。





命に向かう場としての食卓


かつてよく、父に釣りに連れて行ってもらった。磯に連れて行ってもらったときに、メバルを釣り上げたことがあった。背中がトゲトゲした、黒っぽく輝く魚だった。

僕はよく、骨ごとまるまる魚を平らげてしまう。だが、さすがにメバルは無理だろう。


骨ごといけない魚ならば、丁寧につついていくことになる。背びれの周辺、骨の周辺、おかしらの周辺など、とくに食べづらそうな部位には、ゼラチンのようなとろっとした肉質の部分やら、くりっと引き締まった肉質の部分だとかが隠れていて、なるべくそうした希少部位も残らずいただくようにしている。


目玉なんかも食べられるときには食べてしまう。とろっとした外側に、コロリと硬めの中心部分が包まれている。


目玉と目玉のあいだ、人間でいったら額にあたる部分か、あるいは後頭部~首筋にあたる部分なのかもしれないが、その部分もほじくることができて、食べるとうまい。おかしらの皮の部分もはがして食べると、魚類の頭部の骨格の様子がよくわかっておもしろい。


そこまで執拗に食すのは、余裕のあるときでないとなかなか難しい。魚をきれいに食べるときのじぶんは、そういう人なのである。


魚を食べる機会をつとめてつくれば、結果的に、余裕のあるじぶんに頻繁に出会えるようになるかもしれない。カレーやうどんやラーメンをかきこむようには食べられないから、無理にでも余裕をつくって食事にのぞむことになるだろう。忙しくても、食べないわけにはいかない。


あるいは、いちどにまとめ食べをするようになってしまうだろうか。そうなってしまったら、あまり健康的でなさそうだ。でも、その限られた食事の機会にいただくものが魚だったら、食べやすく処理されて油を用いて調理された肉料理なんかをドカンと食べるよりは、いくぶん良さそうである。


「食べやすさ」への高い要求をクリアしたものを中心に食卓を回すことは、食事にのぞむハードルそのものを低くする。そもそも食事というのは他の生き物の命をいただくことであって、これはたいへんにハードルの高いおこないだといえる。


蟹を食べるとき、ヒトは黙る。


これは、よく聞く話ではないだろうか。(我が家だけだろうか?)魚から無心に小骨を取り分けたり身をほぐしたりしているときにも、蟹のときと似たような風景が生まれがちだ。

命に向かうだけの注意がそこにある。会話をしながら他者と食事をたのしんでも良いけれど、共通の料理に向き合って「食事」の時間を共有するのと、料理を会話の脇役、いや、あえてこう表現しよう、会話の「モブ」にするのとでは、いくぶん違う姿勢かもしれない。


他の生き物の命を「モブ」扱いとは、ニンゲンもなかなか偉くなったものである。つくづく、あまり出世はしたくない。それを出世というのならば……だけれど。


出世する魚がいるらしい。成長してからだが大きくなると、出世するのだ。出世した大きい魚は、食べやすい切り身がたくさんとれる。偉くなった魚は、偉くなったニンゲンの口に吸い込まれるようにして消えていく。



食卓の役割が、「栄養摂取」の場から「コミュニケーション」の場へと進化したのか、あるいは退化したのか……いずれの役割にしたって、卓上の命の総量に変わりはない。それらに対峙する「おのれ」が試される場ともいえそうだ。




最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。