やさしさの一方通行

じぶんがされたことを、ひとに返す。


子どもを見ていると、毎日飽きません。ひとりで遊んでいても、ひっきりなしになにかしゃべっています。あっちからこっちから、いろんな角度で愉快なことばやふるまいが飛んでくるような、そんな気持ちになります。


子どものことばをよく観察していると、なかには私が子どもに対してつかったことばが多く存在していることがわかります。


ヒトという生き物は、すべてのことを真似から始めるんだということを思います。そうして、他のヒトのことを真似しているうちに、「ニンゲン」になっていくのです。(使い古された、年長者のお説教みたいですが)


私のことばやふるまいも、これまでに私が関わってきたたくさんのヒトたちの真似がもとになっているのでしょう。子どもよりは長く生きているから、そうした真似ごとが複雑にチャンプルー(ごちゃまぜに)されて、私固有のことばやふるまいが形成されていることと思います。(固有のとはいえ、似たようなおこないやふるまいをするヒトをそこらに探すのはたやすいことでしょう)


一方的なやさしさを受け取ってきたおとなは、きっと、子どもにも一方的なやさしさのほどこしをするのでしょう。じぶんが小さい子どもだったあのときに、おとながしてくれてうれしかったことを、じぶんが大きくなったときに小さな子どもに対してほどこしてみるのです。そうすることで、じぶんが小さい頃にうれしいことをしてくれたあのおとなにじぶんがなったみたいに思えて、やっぱりうれしいのです。「あ、いま、じぶん、あの日のあのヒトみたいだ」ってな具合に、ですね。


そうしたほどこしは、小さな子どもの頃のみに経験するものではありません。


たとえば大学の先輩が、新入生に対してしてやることのなかには、ならわしのようになっていて、毎年繰り返されるものがあるでしょう。(なかには悪ふざけや、不条理な割礼、通過儀礼のようなものもあって、かつてじぶんがやられたことの腹いせを新入生をつかってするみたいなこともあるかもしれませんが)  なにもわからない者にとって、そうした一方的なほどこしをしてくれるとか、やさしくおしえてくれるとかいったことは、至極うれしいにちがいありません。じぶんが新入生から上級生に変わったときに、そうした経験を持って次の新入生を迎えると、おなじことをしてやりたくなるのでしょう。  大学のことを例に挙げたけれども、会社だったとしてもそうでしょうし、どんな地域、どんなコミュニティ、どんな組織においても、ヒトが集まるところには似たようなことが起きるでしょう。それで、「ニンゲン」が生まれるのです。その局所において、それぞれ固有の「ニンゲン」です。




学びをもらったら、学びを返す。

芸や技術をもらったら、それを次にたくす。

お金を受け取ったら、それを元手に、できれは同じくらいかそれ以上の価値を生み出して、残してやれたらいい。


ひとつひとつのことば。日々のごはん。態度。見守り。


時間が逆流することはない。だからこそ、もとの場所に返すのではなく、次へ次へとたくすしかないのでしょうね。




最後まで読んでくださり、ありがとうございます。