「緊張の克服」という幻想

いくら大人になっても、「大人になりきれていない」「もっと大人になりたい」と思うことがあるとしたら、なんだか「大人」って幻想みたいなものだと思う。幻想なんていうと、まるでこの世に存在しないものかのようだから、「理想」程度に言いとどめておいたほうが、適確かもしれない。


理想って、「理を想う」と書く。


「理」は、理屈の「理」、理論の「理」、あるいは一文字で読めば「ことわり」の「理」だ。


「ことわり、理屈、理論」などと聞くと、僕の場合は「そうなるのが必然的であること」というようなイメージを持つ。それにしたがって解釈すると、「理想」は意外と、そうなることがこれといって珍しいことでもなさそうだ。「理想を現実にする」なんて物言いを聞いたことがあるけれど、「もともと理想は現実の延長上にあるんだから」などと横やりを入れたくもなる。


《「大人になる」という、理想。》……と表したとき、それは、いずれ叶う。


《「大人になる」という、幻想。》……と表したとき、それは、きっと叶わない。


「理想」と「幻想」を混同してしまうと、その混同をやめない限り、ずっと同じところをぐるぐると、回り続けることになるのかもしれない。




最近、ギターをものすごく魅力的に奏でる人に出会った。その人のプレイがあまりにも魅力的だったので、僕は「緊張することはありませんか?」と訊いた。緊張の克服は、僕がこれまでずーっとずーっと気にかけ続けてきた、おおきな「課題」のように思っていることだったからだ。すると、その人はこう教えてくれた。


「緊張、しますよ。6割くらいの力しか出せないことがあります。だから、練習して、その〈6割〉を高めていくんです」


僕は、この言葉を聞いて、自分の抱いていたある「混同」に気がついた。


僕がずーっとずーっと「課題」としてきた「緊張の克服」……これは、「幻想」だ。一方で、「緊張と折り合うこと」……これは、「理想」だ。


僕は、長いこと、この「幻想」と「理想」を混同してきたのだ。


先のエピソードが僕に教えてくれたことは、「いかに緊張しないようにするか」ではなく、「いかに、緊張したとしても『良い』といえる水準を満たしたパフォーマンスを発揮するか」を考え、目指し、日々のおこないを積み重ねていくべきだということだ。


「緊張」についての論点は、きっと他にもたくさんあって、今回の僕のこの気付きに対しても、きっとたくさんの反論が立つことだろう。そうした反論のひとつひとつと対峙し、論破したり、折り合ったりしていく道の先に、「大人の僕」の姿があるのかもしれない。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます。