銀幕で観る太古の王者

僕がはじめて観た映画は、『ジュラシック・パーク』だったと思う。父と映画館で観た。兄もいたように思う。ある太っちょの登場人物が、小さな車の中で、小さいがすばしこくて鋭い爪を持った恐竜に雨の中で喰われるシーンが怖かったのを覚えている。


ただ、この作品は劇場公開後も繰り返しテレビ放送されている。僕はその後、そういったテレビ放送でもこの作品を何度も観ている。だから、あの雨のシーンを怖かったシーンとして覚えているのは、はじめて劇場で観たときの体験のみによるものではないかもしれない。


大きな音というのは、ただそれだけで、子どもにとって怖いものかもしれない。ときに激しい音とともに激しい光が繰り返し照射されるようなシーンを含んだ映画というものは、子どもにとってはたいへん「怖いもの」かもしれない。激しいシーンがないとしても、役者さんのよく通る声が大音量で再生されるだけでも、子どもにとってはかなり刺激的な体験となるのではないか。


『ジュラシック・パーク』くらい広く親しまれた(……と、僕は評価している)作品だったらその限りではないかもしれないが、いまはインターネットがあるおかげで、かなりマイナーな作品だとしても、ひとたび流通に乗ったものならば検索すればなんでも出てくる。記憶が曖昧だったとしも、うまいこと調べ上げれば、家のベッドの上から一歩も踏み出すことなく、タイトルが思い出せないあの作品に関する情報だとか、そうした作品がDVD化されたもの、あるいはデータ化された配信映像そのものを容易に手に入れることができる。


ベッドの上であらゆるエンターテイメントを検索できる現代に対して、強靭なからだを持った恐竜たちが生態系の頂点にいた時代が太古にあった。彼らの君臨した時代がいくら真実だとしても、それをベッドの上で観賞する現代からしたら、フィクションそのものである。


観賞する人が「非日常」を感じさえすれば、史実をもとにしたこと、あるいは現在起きていること、起こりうることをもとにしたことでも、エンターテイメントとして成立するということがわかる。たとえば高校生どうしの恋愛は容易に現実に起こるかもしれないけれど、大昔に学校を卒業したおじさんやおばさん(ついこないだ卒業したばかりのおにいさん・おねえさん)にとっては、もはや「非日常」そのものだ。あるいは、現役の高校生だとしても、本人がそこに「非日常」を感じさえすれば……というのは、先ほどの繰り返しになる。


むしろ、どこかに「こういったことは今までの歴史の中で起きてきたし、現在もどこかで起こりうる」ということを感じさせるリアルさがないことには、観るものをしらけさせてしまうかもしれない。そうしたリアルさが、エンターテイメント作品には必須といってもいいのかもしれない。


作品の世界すべてに渡って「リアルさ」を持たせることはむしろ非現実的だけれど、たとえば魔法が飛び交うファンタジー世界の中でも、観るものを共感させたり引き込む要素には、きっと何かしらの「リアルさ」がある。


記憶や感情のあいまいささえも、やがてはすべてゼロとイチに置き換えられ……という「非日常」、あるいは「リアルさ」か……



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