メタフィクション・サミット

ちいさなライブハウスのステージに登ったり降りたりしている。僕のやるそのほとんどが、一回30分程度のステージである。3分~5分の曲を積み重ねて30分間を構成すると、一回のステージでやれる曲は多くて7曲だ。


セットリストの最後にやるのは、おおげさにいえば、今の自分の人生における結論のような曲だ。ここに位置付けられるような曲は、僕の場合は数年に1曲くらいしか出来ない。だから、僕がステージに登ったときに最後にやる曲というのは、だいたい特定のある曲であることがほとんどだ。


こうした「そのときの自分の人生の結論」みたいな曲を、量産できたらいいのに、なんてことをよく思う。自分でつくっておきながら、いい曲だと思えるようなものを。でも、貴重だし、たまにしかできないものだからこそ、いい曲だと思うのかもしれない。そんな曲を量産するだなんてことは、幻想かもしれない。量産できてしまう時点で、自分にとっての「いい曲」ではないとしたら、いかに日々僕はそうした「名曲量産幻想」に惑わされていることか。実際、そのような曲を量産できていない現実があるため、惑わされているというのは僕の思い過ごしかもしれない。口が滑っているだけのことかもしれない。


職業としてシンガーソングライターみたいなことをしていたら、お金を出してくれるお客さんがいることになる。少なくとも、職業として成立する程度の数のお客さんが、である。


それでお金をいただくということは、お金を出していただけるようなものを作り、パフォーマンスを届けることでもある。そうした職業パフォーマーの人たちのやるステージの構成が、僕のやるステージの構成と同じとは思えない。きっと、お金を出してもらったうえで満足してもらうためのいろいろなことが絡んできて、それらを考慮したり鑑みたりしたうえでその構成が決定されることと思う。そうしたプロセスに伴う苦痛や苦労を越えて、労力を費やして完成させられるパフォーマンスや作品、およびパフォーマーたちや彼らを支えるあらゆる役割の人たちのことを、僕は尊敬してやまない。つくづく、奇跡みたいなものだと思う。同時に、必然だとも思うし、自然(あるいは人為)だとも思う。


ステージに上がる人は、少数だ。それを、大衆が観る、という構図がある。(地域の小さなライブハウスで、本来なら集まったお客さんたちが払うであろう多くのチケット代を、お客さんが集まらないがために出演者が負担してライブハウスにお金を払って演奏している、というような場合は、ステージに上がる者の方が「大衆」になるという逆転現象が見られる場合もあるが。)


ごく限られた少数の人が、ステージの上でのおこないによって、多くの人を沸かせているという風にみることもできるけど、たまにふと思うことは、(カエルが先かオタマジャクシが先かみたいな話になるが、)同じ現象を反対からみて、客席にいる大勢が、珍奇な変わり者をステージの上に立たせて面白がっている、というふうにも見えるのじゃないか、ということである。


だからなんだということも言えなくて、僕の中に確固たる結論があるわけでもない。もともと何か言いたいことがあったわけでもない。ただ、ある現象や、呈された様相を前にして、自分というツールを通してその現象や様相を切り取るとこうなる、ということを、自給自足でおもしろがっているだけである。自分の生(せい)は、自分でまっとうする以外ない。誰かの代わりに生きることは、できない。


それとも、僕が気付いていないだけで、僕は誰かの代わりを生きているのだろうか?  巧妙に仕掛けられていて、決して僕には気付けない黒幕がいるとしたら?  「いえいえ、そんな馬鹿な話はないでしょう。漫画や映画のような作り話じゃないんだから。」と、僕の中のある僕がいう。すると、また別のある僕がいう。「漫画や映画の中の人物は、自分が架空の存在であることを自認するか?」すると、またまた僕の中のまた別のある僕がいう。「そういうの、メタフィクションというのでは?」またまたまた、別のある僕。「あ、知ってるそれ、聞いたことあるぞ」


つくづく、人のつくるものはおもしろい。




最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。