信じる「扉」

こちらに目を向けてくれている存在のことは、信じてみたくなる。反対に、こちらが目を向けているのを感じ取った人は、逆にこちらのことを信じてみたくなるのかもしれない。


最初にどちらかがすでに目を向けている状態がないことには、信頼は生まれないとする。そうすると、最初のその瞬間だけは、一方的な「思いやり」ならぬ「見やり(視線をやること)」が必要になってくる。その「見やり」を受けた側がそのことに気づき、両者の目が合ったところではじめて、信頼が生まれるのかもしれない。


信じることがどういうことかわからないことには、それがたやすいことなのか困難なことなのかもわからない。この世に生まれ落ちて、生きていくなかで、先輩たちの姿を目にし、関わることで、おそらくこういうことなのだろうなぁという具合に、それぞれにおける「信じる」ことがどういうことかというのを築いていくことになる。


「信じる」ことは、なにもその相手が失敗をすることに対して盲目的になることではない。「あなたのことを信じているけれど、あなたが失敗をする可能性もある」これは、当然のことともいえる。そうでなければ、何も信じられない。


「信じる」というのは、何があってもお互いの関係を続けようという意志、なのかもしれない。信頼の対象とした相手のおこないによっては、そこから先は信じられなくなることもある。ある瞬間における「関係を続けようとする意志」を「信じること」だとするならば、「信じる」は不変ではない。


ひょっとしたら、「信じる」はもう少し幅のあるものなのかもしれない。「ある瞬間における、関係を続けようとする意志が一定期間継続すること」を、結果的に「信じる」ことだと評価できる、くらいのことなのかもしれない。「信じる」ということを絶対的で不変なものかのように思い込むことは、危ういことともいえる。


「信じる・信じない」の幅を含めて「信じる」という扉の奥に閉じ込める。そうしたら、その扉のとなりに「信じる・信じない」の幅を含めて「信じない」という扉があった。だから、そのふたつの扉を含めて括ることのできるところに、新たに「信じる」という扉を置くことにした。


その繰り返しを通して、「信じる」とはなにかを見ようとしつづける。からだが朽ちぬかぎりは、そのことに終わりはない。願おうとも願わなくとも、からだは朽ちる。朽ちた人たちのことも含めて、次の人たちが「信じる」扉を置いていく。



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