映画『A』 〜そういう「事件」〜

おなじことをテーマにした発信を、繰り返すことがあると思う。


その都度、そのときの切り口、言い方、取り上げ方といった表現が違えば、同じことをテーマにした発信が何度あっても良いと思う。それだけ、そのテーマは繰り返し扱うべき重要なものなのだろう。


過去のものを手を加えずに繰り返し発信することだって、その時に改めて出し直すことの意義があるのならば、それはそれで「そのときなりの発信」になるのじゃないかと思う。最初に発信したときから時間が経っているのならばなおさらだ。その間に、受け手のほうが変化するからだ。


特定の人物が時間経過によって別人のように変化する場合もあるし、「集合体としての受け手」を構成する「個」がごっそり入れ替わる場合もある。


たとえまったく同一のものを繰り返し発信したとしても、真の意味で、同一の表現を繰り返すことにはならないのかもしれない。


仮に「A」という映画があったとして、その上映が10回目に繰り返されるときと、11回目に繰り返されるときとでは、似ているかもしれないけれど厳密には違った表現になるだろう。いや、映画「A」の内容が変化するわけではないから、「違った表現」というよりも「違った事件」になると言ったほうがふさわしいだろうか。映画「A」の「10回目の上映」という事件と、「11回目の上映」という事件は、似て非なるものである。


つくづく、発する人と受ける人の両者がいて「表現」が成り立つことを思う。


同じテーマを同じ人が切り取って表現し直すとしても、出来上がるものはそのときによってまったく違ったものになる。仮に「テーマ」のほうは不変だとしても、「切り取って表現する人」のほうが変化する。「昨日と今日」くらいの時間経過だと、その変化は微細なものかもしれないけれど、この期間が「去年と今年」くらいになると、いくぶんその違いは顕著になるのではないか。あるいは、5年10年(20年30年……)したときに、かつてと同じテーマを切り取る表現に取り組んでみたところ、かつてのものと「(一周、あるいは何周もめぐって)とても似た表現になった」という事件が起きたとしたら、それはそれでとても興味深いことだと思う。


あるエッセイストが「同じこと」について何度も繰り返し書いたとしても、そのいずれも、「同じ事件」にはならない。同じことについて何度も書くから、誰かから「(このエッセイストは前に書いたことを忘れて)また同じことを書いている。惚けたのか」と指摘されるようなことがあったとしたら、それだけ大事なテーマがあることについて皆で喜んでもいいくらいに僕は思う。


たとえば「愛」について、これまでに人類はどれだけの表現をこころみたことか。そのいずれも、「同じ事件」にはなっていないはずではあるが、「似た事件」はあちらこちらで起きている。どこかですでに起きたことのすべてを共有することはできないし、人類が忘れっぽいからかもしれない。他にもいろんな理由があるだろうけど、そのすべてに言い触れることが出来るのならば、誰も「同じテーマ」を何度も扱ったりしないだろう。



それを「しょうがない」としても、しなくても、読んでくださり、ありがとうございます。