しょうがない?

「しょうがない」は、それ以上どうにもしようがない、ということだろうか?  だとしたら、かなりなるようになっている状態なのだともいえそうだ。手詰まり状態ともいえる。引き返せるのなら、そうするしかないだろう。それもできないから、「しょうがない」というのだろうか。


あるいは、まわりの状況が勝手に変わるのを待つしかない、ということか。……なぁんだ、「待つ」ことならできるんじゃないの、と思うと、完璧な手詰まりとはいえないかもしれない。「しょうがない」は、「完璧な手詰まり」を意味するわけではなさそうだ。


「しょうがない」は、あきらめの気持ち(意思)を表すことばなのか。あるいは、それを相手にうながすせりふなのか。


「しょうがない」を言ったら、問題解決を放棄したかのように見えるかもしれない。主体性を持って動くことをやめにした、というふうにとらえられるかもしれない。ある志を持った人には、意識的に発することを避けられることばなのかもしれない。


しょうがないとはいえない、かならずどうにかできる……という姿勢が、いついかなるときにも通用するわけじゃない。「しょうがない」を受け入れることを突っぱねるのは、ただの強情とか、見栄とか、プライドをふりかざしているだけに見えてしまうこともあるかもしれない。「しょうがない」から待つ、待っているあいだにほかのことをする。そのことで、周囲の状況が変わり、かつては確かに「しょうがなかったこと」が、時間がたったのちに「しょうなくなくなる」ことは、あるかもしれない。つまり、「しょうがない」さんの正体は、「待つべし」というお啓きなのかもしれない。


あるいは、もうほんとうに変えられない、しょうがないことがある。僕の身長は167センチだが、縮むことはあっても、もうこれ以上伸びることはないだろう。15歳だったらば希望があるが、現在32歳である。これはもう、しょうがない。高いところに頭をぶつけないで済むとか、狭いところでもコンパクトに寝られるとか、女性もののLサイズですてきなデザインの服が着られるとか、しょうがないことでも、そのことが悪いことばかりとは限らない。もちろん、無理に良いほうにとらえるのは屁理屈だという見方もできるし、そのこともきっと、無視しないほうが身のためだろう。いずれにしても、「無視しない」は大事だと思う。


「無視」が平常になると、認知そのものをしなくなる。これは、しょうがないでは片付けられない。



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