色、否、光。

名は体をなす、なんて言います。いや、僕はあんまり言いませんから、「聞きます」。


僕の好きなある小説家は、タイトルをつけてから作品を書き始めるらしいです。


いまある言葉でふさわしいものがないとき、新しいことば(名前)がつくられるのでしょう。


この順番でいけば、事実にもとづいて名前がつけられるから、中身と名前の不一致が生じにくいのかもしれません。


事実を積み重ねるやり方に、フォーマットはないでしょう。社会のルールや法律はあるけれど、それらは本来人間を縛るためにあるわけじゃないはずです。みんなが自由に、尊重されて生きていくためのもののはずだと思います。


ルールや法律にうといと、あちこちからだをぶつけることになるかもしれません。でも、その体験は身になるだろうと思います。先人たちがいろんなところにぶつかりながら築いたフォーマットがあるかもしれないけれど、なんの疑いもなしにそうしたフォーマットに最初から乗っかり、何も苦労することなく「通ってしまった」では、何も身に付かないような気がします。それの何がいけないの?  と言われると……、そうですね、だれがだれと入れ替わってもなんの問題も生じない、取っ替えの利く人間を量産して使い捨てにして代謝(退社?)させていくシステムを助長するんじゃないかなあ……なんて思います。そのシステムはなにか、もっとおおきな力、たとえば致命的な自然災害とかで環境に大きな変化がもたらされたときに、個々の生きる力が養われていないがために、結果的にもろいのじゃないかなぁと思うのです。世界全体、長い時間を視野に入れたエネルギー(食料)の問題なんかを考えたときにも、そうした代謝(退社)システムは今後ますます歪みを大きくするものなんじゃないかなぁと、ばくぜんと思っております。



あちこち、からだのどこかをぶつけながらくぐり抜けてきた道を振り返って、分析して整理して、統合したり分割したり言語化したりすることで形成されるものが理論なのかもしれませんが、なかなかいつの時代の、だれにとってもそのまま適用可能な理論というのはないのじゃないかと……いえ、なかなかどころか、まず絶対にありえないといってもいいのかもしれません。


だれかが築いた理論は、名前をつけられたところで過去のものになる……そこで完結するのじゃないかと思います。それを自分の手腕でリメイクしたり、続きを描き始めてみたりといったことは、じぶんのからだをあちこちぶつけながら歩んでいくことにつながると思います。


「その人のカラー」なんて言うことがあるかもしれませんが、いろんな色の波長が含まれた「光」なんだということを、忘れないでおきたいと思います。