置いておくラブレター

平凡な僕である。才能のようなものがあるかもしれないし、ないかもしれない。自分でもよくわからないし、決めつけたくもない。平凡でありつつも、その平凡に少しだけなにかを課すことで、愚直に進歩しているようにも思う。ナメクジやカタツムリみたいなイメージだ。もちろん、ナメクジさんやカタツムリさんにはとうてい敵わない程度のものかもしれなくて、その場合はおこがましくて申し訳なく思う。


努力も、まったく同じことを続けているうちに、努力でなくなってしまうかもしれない。表面上はまったく同じようにみえる行動や行為が、ある時期には努力やチャレンジとみなせたものが、別の時期(しばらく経ったのち)には、とても努力やチャレンジとはみなせない、ということがあると思う。(たとえが的確でないかもしれないが、)たとえば、2歳の幼児がひとりでじぶんの歯を丁寧に磨くことは、努力やチャレンジといっていいかもしれない。  同じことを、32歳がやったらどうだろう。きっと、誰もほめてくれない。ほめてもらうために歯を磨くわけではないから、なんら問題はないけれど。



特定の誰かを思い浮かべつつ、それが誰とは限定せずに不特定多数に対して発信したことが、その特定の人以外に「これはわたしに向けられたものだ(わたしのことだ)!」と受け止められることがあるようだ。


「『わたしのこと、ラジオでしゃべらないでくださいよ!』と苦情を言われたけれど、その人のことをしゃべったつもりはないんだけどなぁ……


というようなことを、ラジオに出演中のあるパーソナリティが話しているのを聞いたことがある。あいにく僕は、そのことに共感するのに十分なほどの経験を持ち合わせていないのだけれど、そういうものなのだろうなぁ……という程度には心中お察しする。



逆に、「特定の誰かだけに宛てられたアウトプット」を考えてみる。


・職場の同僚の机に貼り付けたふせん紙に書きつけた、連絡事項

・妻へのLINE「◯◯時に帰ります」


……これくらいしか思い浮かばない。いかにも事務的である。もしくは、限りなく「フロー系」(そのとき限り)なものばかりだ。いかに僕が、自分の「気持ち」的なことを、「特定の誰かのみ」に発信していないかがわかる。


「特定の誰かのみ」に向けられたものの内容が感情的なものだと、とっても重いかもしれない。内容次第では、その特定の相手と自分のあいだの今後の関係を、大きく左右するだろう。



ラブレターは、集団や広い範囲に対しても書くことができる。ただ、ある程度その範囲が客観的に特定可能なものでないと、ラブレターとしての機能を果たさない(伝わらない)可能性が高い。「大自然さん、今日も恵みをありがとう。愛してます」は、いろんな意味で難がある……かもしれない。いや、むしろ良いかもしれないが。


読んだり読まなかったりしてオーケー、といった具合に、受け手側に「あそび(余裕)」をもたせてやること自体に「愛」がこもると僕は考えている。その前提のもとに僕自身、いろんなものを発したり受け取ったりしているつもりだ。「つもり」なんてつもりも、ないのだけれど。


こうして言えることはすべて、すでに起きたことに対しての分析でしかない。だから、今を尊く思うのかもしれない。



読んでくださり、ありがとうございます。