何気ない行動が、社会のならわしに従ったおこないが、深く深く(過剰に)解釈すると、なんらかの差別に取れなくもない。
うまい例えができないのだけれども、たとえば、公共の乗り物の中において、ほかの人に席を譲った人がいるとする。席を譲られた人は、座りたいと願っていたとしたら、嬉しいだろう。単純に、やさしさやおもいやりが成就したことになる。
この場面を(過剰に)深読みすると、席を譲った人は、譲る人のことを「配慮の対象」として認めていることになる。よくある話かもしれないが、その「配慮の対象」とみなされること自体を、不快に思う人がいる。
他人から「若い」と思われていたい人が、「老人」とみなされるのは、とても傷つくことだろう。なにも、席を譲る人が、譲る対象者に対して「あなたは老人です」と言いたいわけではないだろう。何気ないおもいやりとして、というかもはや、「白髪」だとか「曲がった腰」だとか「歩き方」だとか「片手に携えた杖」といったものを瞬時に「老い」の記号としてとらて、もうほとんどただの「反応」として、席を譲ろうとすることがあるのではないか。そこに、「差別的な価値観」を見出そうとするのは、過剰な深読みともいえる。こんなふうにして、「やさしさ」や「おもいやり」を、ややこしく考えることもできる。
ややこしく考えることを、僕は歓迎しているほうだ。「無知は価値の始まりだ」と思っているくらいである。まだ知らないことの先には、たくさんの道があって、「こんな道もある、あんな道もある」と知り、出会っていくのは楽しいし、面白い。
そうした未知との出会いによる面白みや楽しみを、いつでも、どんな人にでも、押し付けるわけにはいかない。「ややこしく考えること」が、いつでも正義ではない。
〈遭遇したなんらかの事象を「記号」に変換し、「反応」する〉
この経過の背景には、そうさせた社会環境がある。そこに、問題が見出せる場合がある。
「谷」は、いつ始まるのか。
どこかでひとたび、水が流れる。
そこに、流路ができる。
路(みち)に沿って流れるうちに、ますます、水はそこを流れるしかなくなる。そのように、土地を削っていく。
はじめから、そのような流路をとる運命にあったのか?
「ふとした思いやり」をきっかけに、その後の太いメインストリームができるのかもしれない。
はじめは、どちらに向かって流れ出しても、おかしくない状況だったかもしれない。
そこを分けたものは、なんだったのか。もとを辿り、終わりなく、ややこしく考えている。
お付き合いいただき、ありがとうございます。