やっぱり、家のゴハンはうまいよね

その時代の主たる産業のサイクルが、支配的に社会時間を形成するのか。


ある時代は、自動車。ある時代は、稲作か。

いまの時代は、アマゾン?(川ではない)か。


人間が人間のため(ときに人間以外の存在のため)につくりだしたはずのコンピュータや電子のネットワークが、支配的に人間の社会時間をつくりだしているとしたら、皮肉な話だ。自分たちのつくりだしたものに、自分たちの舵を握られているようなものだからだ。そのことがときに人を苦しめるのも、納得せざるを得ない。


自分たちに対して支配的にはたらきかけてくる、強大で広範なものの存在を認め、部分的には受け入れつつも、その支配をおしのける自分が必要なのかもしれない。そうした自分を持てるかどうかが、いまの時代できもちよく、幸せに生きられるかどうかにかかってくるだろう。



僕は、いろんな世代の、いろんな人々が日々訪れる、ある場所ではたらいている。


この場所は、ひょっとしたら、いまの時代におけるもっとも支配的な社会時間より、少し遅れた流れを持っているのかもしれない。


具体的にどういうことかというと、未だに、窓口での直接のやりとりだとか、電話や文書などでのやりとりだとかが最終的には頼りにされている慣習があるということだ。


肉体的・物質的なものを中心としたやりとりが最終的にはいちばん頼りにされるのは、何も僕の職場に限ったことではないだろう。けれども、先端の部分、いまの時代の支配的な社会時間に未対応な領域をたくさん持っている、という意味で、僕らの職場は「下限に合わせる」スタンスをとらざるを得ない状況にある、といえるのかもしれない。


いま、ここで「下限に合わせる」という表現を用いた自分がいることが、僕はすぐさま恥ずかしくなった。「下限」だなんて、ほんとうはそんなことはない。むしろ、もともとこっちが本当だ。


僕の職場に出入りしたり、関わったりする人たちの中には、インターネットに接続する環境を持たずに生活している人がたくさんいる。インターネットに接続する環境を持ちたいと思っても、端末の操作や、そもそも環境をつくりだす(設置する)ことそのものがハードルになり、それらを越えられないがために、現状のままでいるという人もおそらくいる。


そうした人たちが出入りしたり、関わったりする環境に身を置いているからこそ、僕の目にはなおさら、いまの時代の支配的な社会時間と、いまの時代に暮らす人たちの間に起きる摩擦みたいなものが、浮き立って見えるのだ。


そんな摩擦が見えるのは、僕の目の個性なのかもしれない。おなじ模様を目にしても、僕と同じことを思う人はいないかもしれない。摩擦が悪いことかのようにとらえる向きもあれば、そのことを良いことのようにとらえる向きもある。その摩擦は、エネルギーなのかもしれなくて、解決に向けて走り出し、しかるべき方向性を示してくれる舵なのかもしれない。


そう考えると、自分たちがつくりだしたものが自分たちの舵を握るという状況も、そう絶望するようなことではない、ということがわかる。はじめから、無意識下では理解していたことなのかもしれない。


一周まわって、「やっぱり家のゴハンはうまいよね!」というようなことを繰り返すところに、人間の愛らしさがあるように思う。