リトル株主ちゃん 〜親と子のある関係〜

親は、子どもの株主みたいなものかもしれない。親は親、子は子、別人である。子どもに、責任能力はない。子どものことで責任を負うのは、親である。


株式会社という仕組みに、僕は明るくない。会社が子で、株主が親だというたとえは、ひどく的はずれかもしれない。会社がしたことの責任を、株主が負うなんてことがあるだろうか?  会社の誰かが違法なことをして、株主が刑事罰を受けるというようなことは考えにくい。ただ、株主として意思決定に関わり、その決定にしたがっておこなった事業によって株価が変動し、株主が得をしたり損をしたりするということはありえるだろう。その点についていえば、株主は会社との関係において「ある責任」を負っているとまではいえなくとも、その関係が株主にとっての死活問題になることもあるはずだ。


親と子だからこそ、築きやすい関係の「定型」みたいなものがあるかもしれない。あまり歓迎したくないような、おちいりやすい関係というのもあるだろう。


「宿題やったの?」

「勉強しなさい」


僕が、こういったせりふを放つ日がはたして来るだろうか。


僕には、2歳の息子がいる。今のところまだ、宿題や勉強といった類の存在とは距離がある。いずれ、息子が直面するであろうものだ。


僕は、自分の父親から先述のせりふや、あれやこれをしなさいといった類のことを言われた記憶がない。母親からは、いろいろと言われた記憶がある。父親の存在と母親の存在、どちらもありがたい。


父親があれこれ言わないから、母親があれこれ言うようになるのかもしれないし、母親があれこれ言うから、父親があれこれ言わないようになるのかもしれない。あるいは、子どもがそのように仕向けているのかもしれない。意思によって仕向けているというのが不適切であれば、無意識にそうさせていると言い換えてもいい。


子どもは、母親に甘えることがある。甘えるときの距離は、近い。母親と子は、ときに一体の存在になるのかもしれない。一体の存在になれば、子の個人的なことは母親の個人的なことと同義になるし、母親の個人的なことは、子の個人的なことと同義になる。自分の個人的なことだからこそ、あらゆることに細かく口を出すことになる。


仮に母親とさせてもらったが、もちろんこの関係のうち、母親の部分に父親があてはまるケースもあるだろう。ただ、母親というものに含まれる性質上の問題で、そうなりがちな部分があるかもしれない。加えて、僕自身が父親であるために、母親と子の関係の方を客観的に観察する機会に恵まれているというのもある。父親と子の関係を客観的に観察する機会に恵まれているのは、母親の方だろう。


親と子だから、なりやすい「ある関係」の存在は、否定しない。そのこと自体は、善でも悪でもない。親と子の関係を、彼らがいかに楽しむかは、彼らの創造性や発想力にかかってくるだろう。誰もが、もともとそうした資質を持っている。どの親も、子を経由して親になったことを、たまに思い出すといいかもしれない。子どもには、あまり関係のない話だろう。自分が親になる、その時までは。



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