ラフ・スケッチ

言えないこともない、訊けないこともない。それって、子どもの集まりみたい。


ごく幼い子どもは、自分を装おうとしない。けれど、あるときから、周りを試そうとする行動が見られるようになるみたいだ。


事実を書こう(描こう)、としたら、事実を書く(描く)しかない。ないものは手に取れないし、そこに置くこともできない。置ける事実がなければ、どこかから取ってくるしかない。あるいは、このような事実はなかった、ということをひとつでも多く明かしていくことで、事実を浮き彫りにする方法もあるかもしれない。なかなか骨の折れる作業だと思う。


自分自身が事実になれば、手っ取り早い。手っ取り早いというか、まどろっこしいことがない。本来そういうもので、ついついまどろっこしい後付けのものに惑わされがちなのが、大人の特徴というか、傾向かもしれない。


たとえば、自分がやったことを自分から切り離して眺めみると、「これはエレクトリック・ギターを用いたバンド編成による大人向けのロック音楽だな」などと形容することができるかもしれないけれど、それは方法でしかない。はじめから「エレクトリック・ギターを用いた大人向けのロックをやろう」といって動き出そうとするのは、いかにも大人的である。そういう、狙いすまされた商売があることを僕は認めているし、それを成立させる人たちのことも心から尊敬している。僕がそういう「狙いすまし」をやろうとすると、そもそも、ハナから動き出すことができないからだ。


僕は、片面印刷のチラシの裏側だとか、プリントミスをした用紙の裏側だとかに絵や文章を書く(描く)のが好きだ。裏も表も真っ白な用紙に何かを書こう(描こう)とするのは、妙に緊張してしまうことがある。(「妙」とは良い意味であるのが本来だと思うと、それも自然なことのように理解ができる。ウラ紙に書いた(描いた)下絵や下書きを、本番の用紙にあらためて書く(描く)という手法もある。)


子どもは、裏も表も真っ白な紙にいきなり何かを書き(描き)始めることを、躊躇しないだろう。大人になって、慎重に作業するようになると、下絵や下書きのプロセスを踏むようになることがある。そうして経験を積んでいくうちに、下絵や下書きがいらなくなり、いきなり本番用紙に書くようになる、ということもあるだろう。子どもから始まって、子どもから遠ざかり、また子どもに戻っていくということを繰り返しながら、大人は生きていくのかもしれない。


ずっと子どもでいられたらいいけれど、子どもしかなかったら、子どもであるということが何かを認識することができない。だから、近づいたり遠ざかったりするプロセスは、なるべく子どもでい続けようとするときほど、必要なプロセスだともいえる。


ニュートラルな状態につけられたことばが、ここではたまたま「子ども」だというだけだ。子どもであることに執着するのも、おかしな話である。


両面が真っ白な紙には、むしろ作為を感じないこともない。みな、生まれながらにして、片面に何かを背負っていると解釈することもできる。両面が白紙かどうかなんてことは、問題じゃない。「いま」というこちら側に、何を書くか(描くか)。下書きだとか本番だとか、区別するところがいかにも大人じみている。




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