自転車で走り去る歌声の主

歌いながら、自転車で走り去る人によく出あう。すれ違う瞬間だけ声が小さくなるか途切れるかして、すれ違ったあと、うしろのほうで、遠ざかりながらまた声が大きくなる。距離は離れていくのにまたきこえるようになるから、そうとうな声量だといえる。


声が出ないのは、たいへんなストレスだ。歌うことや楽器の演奏を日課にしている僕にとっても、それは本当に問題だ。なるべく風邪をひかないようにしたい。ひかないための努力はいとわない。わらさえもすがる。


このところ、毎日はちみつをなめている。セキに効果があるらしい。いまセキが出ていなくても、毎日なめている。深刻な事態にならない範囲での体調の変動はあるけれど、なんだか風邪をひきにくくなった気がしている。


歌のステージで、声が出なくなったことがある。一度や二度じゃない。そういうときは、本当につらい。そのつらさをもとに、新しい曲をつくったことさえある。伝えたいものがあるのに、伝えられない事態というものほどつらいことはない。たかが知れている若造である僕の人生の中では、少なくともいちばんつらい経験のうちのひとつに数えることができる。歌のステージで声が出ないことほど、つらいことはない。公開処刑みたいなものである。


いま、じぶんは世界でいちばんの歌うたいかもしれない。そんなことを思う瞬間を、幸いにもステージの上で経験できることもまれにあるけれど(勘違いも甚だしいという指摘は、今だけはどうか胸の中にしまっておいてほしい)、残念ながら部屋でひとりで歌っているときに経験することも多い。ひとりだからこそ感じられたものかもしれなくて、ステージの上で幸運にも巡りあえるそれとは別物かもしれない。


僕が部屋のなかで感じるようなことを、自転車を漕ぎさる大声の主も、感じているのかもしれない。すこし奇妙な人、くらいにしか思っていなかったけれど、実は非常に僕にとってちかしい人、なのかもしれない。それでいて、「イヤ、ちょっと……」と否定したくなる気持ちがあるところが、僕がいかにまだ若造であるかを物語っているような気がする今日である。



読んでくださり、ありがとうございました。