実名(省略)+さん=「しろさん」

じぶんが結婚を決めたときのことを、思い出した。じぶんやパートナーの身の周りの状況や気持ちが、一緒になることに向いた瞬間があったのだ。


じぶんの親たちが結婚を決めたときは、どんなだっただろう。あるいは他の友人・知人たちをはじめとした「あの人たち」夫婦は、果たしてどんなだったろう。夫婦それぞれ、違った経緯があったことと思う。


じぶんの子どもが子どもを持ったら、自分はおじいさんだ。「おじいさん」ということばには、「最長老」を感じさせる響きがある。「最たる長老」のその先には、なにがあるだろう。「大おじいちゃん」とかだろうか。「大」がつくだけで、なんだかもうすでにこの世にいなそうな印象を受けなくもないところが少し可笑しい。


初めての子どもが生まれるということは、親たちの誕生の瞬間でもある。むこう(赤ん坊)もこの世の空気に触れて生きていくのが初めてであり、親たちのほうも子を持って生きていくのが初めてだ。一緒に生まれてきて、一緒に育っていくことになる。


自分でなろうと思ってなるものもあれば、自分の意思でならなくとも世間からそう呼ばれるものに当てはまってしまうものもある。なるほど、おとうさんやおかあさんは自分でなろうと思ってなれるものとして、おじいさん(祖父)やおばあさん(祖母)は、その限りではない。じぶんの子どもが子どもをつくれば、じぶんは世間で呼ばれるところのおじいさんやおばあさんというものに当てはまることになる。


ぼくは、じぶんの子ども(2歳)から、「パパ」や「おとうさん」ではなく、すこし省略した実名に「さん」をつけた形で呼ばれている。そう呼ばれるように、ぼくが仕向けたのだ。もちろん、強いてはいない。たまに「パパ」と呼ばれることもあって、そんなとき、ぼくはすこしニヤっと(デレっと)してしまう。普段そう呼ばれ慣れていないことによる、「とくべつ感」があるのだ。ぼくの妻や、ぼくと妻の父や母たちがぼくのことを指すことばとして「パパ」という単語を使ってぼくたちの子どもに話しかけることがあるせいで、そのようなことが起きている。


ぼくにつけられた、実名がある。その実名は、ぼくの意思で背負ったものではない。ぼくが父親になったのは、ぼくの意思だ。じぶんの意思でなるものを示す「パパ」と呼ばれることを背負うことは、ある意味じぶんの責任だといえる。じぶんの子どもに、じぶんの意思で背負ったのではない「実名(省略)+さん」で呼ばせることは、ある意味その責任から逃れようとする姿勢の表れだと指摘する人がいるかもしれない。


ぼくはむしろ、じぶんなりの姿勢をつらぬきながら向き合っていることの表れとして、子どもに「実名(省略)+さん」で呼ぶように仕向けた、というのがぼくの主観である。「世間一般から押し付けられる、親たる姿勢」に対する反抗といえなくもない。ただ、ぼくとしては反抗ではなく、ただただ「自行」というつもりでいる。いや、「つもり」なんて余白を残した言い方はよそう。これが、ぼくの「自行」なのである。


そんなことを知ってか、あえて巧みに使い分けて、ぼくの子どもはぼくのことをときおり「パパ」と呼んでみせているようにも思えなくもない。子どもは賢く、鋭いものだ。いつもいつも、生き方のヒントをいただいているぼくである。