運の解釈

運がいいとは、なにか。機会をモノにする力だろうか。


なにか、解決したいことがあるとする。なにか、おもしろそうなことを探しているとする。そうすると、その人の関心が、「解決の役に立つこと」や「おもしろそうなこと」に向けられる。その結果、その人の意識に引っかかるモノ、すなわちその人に認知されるモノゴトの量が増える……かもしれない。


論理的に考えて、モノゴトの絶対量が増えるなんてことはない。ぼーっとして過ごしてしまったって、関心のアンテナをびんびん立てて過ごしたって、自分の周囲を流れる時間、自分が漕ぎ進んだ時間という名の道のりの長さは、一緒のはずだ。


「運」という言葉は、便利でもあるし不便でもある。


ある言葉が秘めた力を、瞬間的に爆発させるみたいに、利用することができる。「運」とひとこと言ってしまえば、千の意味が込められるようなときが、それだ。


「千の意味」を隠れ蓑に使って「運」を語るとき、それは、世にも不便な言葉に成り下がる。


「宝くじは、買わなければ当たらない」。これは、私の言葉ではない(買わずして、「当たる・外れる」の判決は下らない。序文すらも読まれない)。どこかで聞き及んだ、身元不明のことばである。この言葉の意味するところは、なんとなくわかる。「チャンスに恵まれない」とこぼす前に、「チャンスの通り道」に自ら立たないことには、チャンスとめぐり合うことはないだろう。それは、わかる。


「チャンスの通り道に立つこと」が、そもそも難しい場合はどうだろう。だれもが、いつでも立てるような「道」ではないかもしれない。宝くじを買うにも、300円くらいは要るだろう。300円払えないことには、「宝くじめぐり合いストリート♪(仮)」に立つことはできない。誰かに譲ってもらうという手はあるかもしれない。


宝くじを買うための300円を、自ら調達する努力をするかどうかが「実力」というやつだろうか。あるいは、「宝くじを譲ってもらうための努力」も、「実力」に含まれるという解釈もできそうだ。「実力」の解釈の幅は、広い。「運」の解釈の幅も、広い。


解釈の幅が広いぶん、そのときの論旨に都合のよいものを当てはめてしまいがちになる。「あなたは、強い」といったとき、その前までの文脈次第では、「あたな」への賛辞にも、皮肉にもなるだろう。


なにかを言おうとして、なにも言えない。なにも言わぬ、に勝るものはなし……では、なにも言わなくていいのか? 生きていていいのか? ということになってしまう。存在している時点で、なにかを言っているに等しいとも解釈できる。なにも言わないなんてことは、不可能と思っていい。そう解釈することもできる。


だからこその、「好きなようにしなさい」なのか。ねむくてしょうがないときに残したことは、なんだかよくわからないことがある。なぞの「ミミズ文字」の解読に費やすエナジィはむなしい。日中、かつかつの頭で考えることも、ろくなことがない。好きなようにしますとも、今夜も、おやすみ。今朝も、おはよう。


無言にあらがう、「言」。読んでくださり、ありがとうございます。