命のバトン

・じつは反対のものが混じって、主流とか強勢とかいったものが認識されているのかもしれない。混沌としたものを「ざっくりと」把握することは、機械化の難しい人間の固有の能力かもしれない。


・どちらに向けられているかによって、ほとんど似た現象でも、それぞれに与える印象がまったく違う。たとえば、怒っている人がいるとする。怒られている人を見た人は、ひとごとと思って気にしないか、あるいは、「いつか怒られるべきだ」と日頃思っていた対象だったとしたら、「ザマアミロ」と思うかもしれない。もしその怒っている人の怒りの矛先が、自分だったらどうだろう。その人が怒っている、という現象にはほとんど変わりがないはずだけれど、観測者だった「わたし」は、なんだか一気に「当事者」めく。怒られている最中は、気持ちの良いものではないだろう。怖いとかうるさいとか理不尽だとか不安だとかいった感覚や感情が入り交じるかもしれない。


・頼んでいるわけではないけれど、心臓は動くし、呼吸も起きる。生きていくということは、生かされているということで、生きていたものたちから託されたバトンを持って走っているようなものだ。渡されると、つい走ってしまう。


・〈「ハローキティ」の表情は、見る者がみずからの心情を投影できる(見る者によって、いかようにも見える。嬉しそうにも、悲しそうにも)〉といったことを、僕が尊敬するある人が書いていた。確かにそうかもしれない。一見無表情にも見えるキャラクターだが、それゆえに、見る者側の(無意識下の)フィルターを通して、さまざまな表情に認識されるのかもしれない。それを狙って、シンプルな線描や配色でデザインされているのか。見る者を選ばないから、よりたくさんの人に愛される、というわけだ。「表情のなさ」が特徴なのか、それゆえに「いかなる表情をも含む」のが特徴なのか、つくづく、言葉というのは現実のものを言い切るに足りない。


・僕は、長いこと「ハローキティ」の作者と「ミッフィー」の作者が同じであるという勘違いをしていた。いつまで勘違いしていたかというと、ついさっきまでだ。いつから勘違いが始まったのかは、わからない。作者が誰なのか問題にしないような人にまで「作品」が認知されるということは、「作品」に、命のバトンが渡ったひとつの証拠といっていいだろう。


・僕に託された命のバトンも、何代か前までならばさかのぼれるけれど、それ以降はいったいどこの誰が先祖だかわからない。「僕」が自分の作品だということを知らないでいる先祖が、この地球を、宇宙を、今でも飛び回っていることだろう。