いっしょうけんめいやる、ゼロ。

あらゆるものに目を向けようという気のある人は、なんに対してでも当事者になろうとします。そうした人の姿を見ていると、いいなぁと思うこともありますし、自分はそこまでできないとなぁと思うこともあります。


自分のうれしいことを、一緒によろこべる人がたくさんいたら、すごくうれしいことだと思います。でも、自分のうれしいことをたくさんの人とよろこべる状況って、きっと、他のたくさんの人の悲しいことや苦しいことやつらいことを、一緒に背負うことになると思うのです。だから、自分だけでなにかちまちまやっているぶんには、自分がうれしいときに、たいして他の誰もよろこんでくれないかわりに、他の多くの人が悲しんだりつらい顔をしたりしているときにも、平然としていられるんじゃないかな、と思います。


たくさんのプラスマイナスがあっての自分という「ゼロ」と、ちいさなプラスマイナスのみによる自分という「ゼロ」と、どっちがいいのか。それはきっと、自分で選び取るしかないことなのでしょう。どっちがいいか、正直、よくわからない。だからこそ、扉を開けて、いま自分がいるところの周りを少しずつ見に行って、見に行ける場所を広げていって、増やしていって、それでも結局どこまで行っても自分の「ゼロ」は「ゼロ」のままなのだけれど、気がついたらいろんなものを出し入れして、いっしょうけんめい「ゼロ」をやっているのかもしれない。そんな「ゼロ」もまた、素敵だななんて思います。


いや、あるいは「1(いち)」かというところか……自分でも何を言っているのかよくわかりませんが、読んでくださり、ありがとうございます。