端っこの味 〜切り落とされた真実〜

切り身になったお刺身が、そのままの姿で海を泳いでいる……そう思い込んでいる子どもがいたという話を、どこかで聞いたことがある。たぶん、「食育」の必要性を説く文脈で話されたことなのだと思うけれど、これはきっと、「食」に限った話ではない。


人参の頭の部分が好きだ。かつて、「葉」の部分がついていたはずで、それが切り落とされた側の端っこの部分のことだ。この部分は、人参の風味が詰まっている。噛み潰したときに、弾けるような香味が天井に向かって突き抜ける。そんな食味を持った部分だ。「ああ、俺は人参を食べているんだなあ」と、あたりまえのことが実感できる。


一般的に、人参の頭の部分はあまり食されないだろう。自分が好きだからといって、誰かに勧めようとは思わない。ただ、売り物として流通する前の姿があって、それに至るまでの人の仕事(はたらき)がある。きれいに切り分けられて売られているお刺身だって、ローストビーフだって、その状態になるまでのプロセスの方が大半だろう。食材の端っこは、切り落とされてしまった真実の味なのだ。端っこを食らうことを「究極のグルメ」と称するインフルエンサー然とした人がいたとして、僕は黙して心の中でうなずきたい気持ちである。決して僕の方からおすすめすることはないけれど。


僕は、自分で食べたいと思ったものを食べる。聴きたいと思った音楽を聴くし、読みたいと思った本を手に取って、開く。それだけのことなのだ。ただ、一人で生きているわけじゃないせいか、ときどき横やりが入ることがある。そのすべてを避けるのは、現在の一般的な生活を続ける限りは無理だろう。その生活のおかけで、享受可能になるものごとたちを、僕たちはひどく優先して生きている。それだけのことなのだ。


スーパーで買ったお刺身は、「だから、何?」とは問うてはくれない。だからこそ、僕はときに、端っこを食らう。その味を噛み締めて、その意味を考える。



「焼きおにぎり」の端っこを切り落としてしまったら、ただの「おにぎり」ですよね。