「メタ枠組み」に就いて

自分で仕事をつくるというのは大変だ。毎日が白紙で、それをぜんぶ、自分で埋めなきゃならないとしたら、大変だ。


就職するというのは、自分に大きな、かつ安定した枠組みを導入することなのかもしれない。たとえば平日の5日間、9時~18時のあいだ、1時間の休憩を含めてはたらくという枠組みを自分に導入したら、何時からはたらいて何時に終わらせるのか、日々思い悩むことはない。


仕事内容にしても、その職に就くと、おおまかなやるべきことの枠組みが導入される。たとえば、事務職の人が魚を捕まえに海へ出たり、トンカチで材木に釘を打ちつけたりすることはあまりないだろう。いや、本人や組織として差し支えなければ、そういうことがあってももちろんかまわないのだけれど、事務職の人はおそらく、事務を滞りなく遂行するために必要なことは何かを考え、実行するのが使命であろうから、たぶん、今度いつ海に出ようか、その日の天候は安全か、漁具に足りないものはないか、使える状態になっているか、一緒にいくメンバーは誰か、乗り込む船に不備はないか、とかいったことで頭を悩ませる必要はないだろう。


事務職に就く、という枠組みを自分に導入することで、自分は何を考え、何をしなければならないかをある程度絞り込むことができる。それを自分に強いる時間帯や、期間についても同じことがいえる。そうすることで、それ以外の時間をより自由にしたり、仕事のためにどれくらいのエネルギーを差し出さなければならないのかということの見通しを立てやすくなったりする。そのことのメリットが大きいと判断したときに、人は就職するのかもしれない。


しかし実際に就職してはたらいてみると、思った以上にはたらく以外の時間が自由にならず、仕事のために差し出さなければならないエネルギーも見通した(と思い込んだ)以上の量だった、ということもある。そうしたとき、就職するということで自分に導入した枠組みが、堅苦しいものになってしまう。枠型が、肌にざらつき、こすれ、擦り傷をつけ、まっすぐだった背筋を丸めたり歪めたりする癖が、いつの間にかついているかもしれない。そうなってしまったとき、就職した人は、自分に導入した枠型が自分に合っているかどうか、検討しなおすことになるだろう。場合よっては、いまの枠型を打ち壊して立てなおしたりたり、改変したりできる可能性があるかもしれないし、別の枠組みに引越すが吉、ということになるかもしれない。


自然界や社会の大きな流れ・うねり、その影響を直接受けて、日々大きく左右されるリスクを受け入れれば、枠組みのない野っ原に出ていくことを、自分のあらたな枠組みとすることもできる。「メタ枠組み」とでも呼んでみようか。見えないものを、見ることができる。人間には、そういう力があると思う。