命のサーガ

僕は、音楽に傾倒しています。毎日、ある程度の時間を、楽器を演奏したり歌唱したり、それらを録音したりすることに時間をつかっています。


音楽は、眠ったり食べたりすることに比べれば、直接命を保つことへの影響が少ないと言われれば反論しにくいのですが、僕の場合はそうでもないんだよなぁ、というのが僕の実感としてあるのですが、それを他の人、特に音楽に傾倒していない人に理解してもらうのはなかなか難しいところがあるのが、僕の悩みのひとつかもしれないと思っていました。


ところが、その僕の悩みに対して、救いになり得るようなお話を昨日、ある作詞・作曲家の方から聞きました。というのは、音楽に深く感動して、涙したり、グッと来たりする瞬間の人間の脳(神経や脳波?  具体的になんなのかまでは詳しく言及されませんでしたが)のようすを観察すると、そのときに脳が示す反応が、「食事」や「性行為」や「薬物」によってあらわれる反応と、相似点がみられる……というようなお話だったのです。そして、その話の前には、「古今東西のあらゆる文明において、音楽は存在した」という前置きがされていました。「薬物」はここでは例外とさせていただくとしましても、命を保つための行為である「食事」や、命をつなぐための「性行為」と、「音楽に親しむ行為」を同列に語れる視点があるというのは、僕にとっての救い、僕の悩みや煩悩をときほぐす糸口になってくれるように感じたのでした。


ところで、僕には妻があり、子があります。僕が音楽に傾倒していなかったら、妻と出会うこともなければ、関係が深まることもなく、結婚することも子が生まれることもなかったかもしれないのです。日々、僕は音楽に関わる行為のために時間をつかい、そのことによって明確に計上可能な利益をあげているわけでもないことを妻や子どもに申し訳なく思う気持ちが、(実はまったくないのですが)少しはあるようなふりを大なり小なり地域や社会に対して演じて見せねばならないような気がしてしまいがちだったのですが、昨日聞いた先ほどのお話で、「そんなことはないんだよ」「音楽は命そのもので、必要なものなんだよ」と、少なくとも自分を納得させてやることができるように思います。そして、僕のことを少しでも認めてくれている人をはじめとしたあらゆる人々も、納得してくれるかもしれない、少なくともそうした希望を持てるようなお話だと思ったのです。


僕や妻の前には当然、僕や妻の父や母たちがいて、そのまた父や母たちが、さかのぼった先に延々とそびえています。その様相たるや、圧巻……と、見たこともないのに思うのは、彼らの命が、僕のこの命に伝え、託され、宿っているからなのかもしれません。