お次は、未来。〜点からはじまるビッグバン〜

一個の商品と引き換えに、やりとりされる代金。時間は、お金に換えることができる。逆にお金を遣って、時間を捻出することもできるだろう。その場合は、金銭報酬によって誰かに代行してもらえるようなおこないに、日常的に自分が時間を費やしているという条件が付くだろう。自分でやることに意味を見出すおこないは、誰かに代行してもらったんじゃ意味がない。


そのときに動いて、流れてどこかに消えてしまう、お金。もちろん、どこかに作用して、その作用の連鎖が起きて、消えてなくなってしまったかのように見えた「あのとき・いつか」のお金も、この世のどこかに今もいる。でも、そうした連なりを経て、遠ざかったことによって、具体的にどの部分が「あのとき・いつか」の「あのお金」なのかを認知することは難しい。人の手から手を渡り歩くお金の旅は、一本道ではない。始まりは点だったとしても、それはたちまち線から面へ、面から空間へ、空間から時間へと波及する。時間のお次は、いったいなんだろう。


未来をつくるといえば、聞こえは尊い。こどもは未来をたくさん持っている。「未来」を「お金」風にみなしていえば、こどもはいわば「未来持ち」である。人の手から手を渡り歩き、たちまち輪郭を失うそのときの「お金」のためにはたらくことももちろん大事だけれど、人を動かし、未来にはたらきかけることを忘れてはいけない。これを読んだあなたが、あなたの属する集団が、国が、世界が、未来が、僕にはたらきかけてくれているのだ。そう思うと、僕もはたらきかけなきゃいけない。はたらくとは、そういうことなのだ。その対価は「お金」だけでは、決してない。


点から線へ、線から面へ、面から空間へ、空間から時間へ。時間のお次は、未来かもしれない。